「ベトナム子ども基金通信No.19」より


洪水に備えて「避難所兼学校」建設開始

2000年11月16日発行の本通信号外で、メコンデルタの洪水被害に対する緊急支援として「避難所兼学校」建設のため、みなさまのご協力をお願いしました。そして、ベトナム青葉奨学会を支える、北陸ベトナム友好協会、青葉奨学会沖縄委員会と本基金の3団体で、ホーチミン市に隣接するロンアン省トゥトゥア村に建設することが決まりました。昨年12月に建設がはじまり、今年3月末に完成予定です。
 今回は2001年10月に訪越した運営委員の望月氏のメコンデルタの洪水レポートと、トゥトゥア村の昨年の洪水の様子を現地紙「コンアン」(公安)からお届けします。

 メコンデルタ洪水、現地報告

望 月 良 憲

メコンデルタでは2001年8月からの洪水被害で、死者が多数報告されている。10月26日のロイター通信の報道によると、死者は361人にのぼる。また、現地紙「タィンニエン」は、21日までに少なくとも305人が死亡、うち241人が子どもだと伝えた。水はカンボジア国境付近でゆっくりとひき始めているものの、危険水域をまだ超えているという。
 筆者は10月17日、メコン川の支流ティエンザン川の両岸にあるカイベとヴィンロンを訪ねた。サイゴンから4時間の道のり。カイベでは、川沿いに土嚢が積んであり、水位も高い。ヴィンロン市場のロンホー川に面した一角は、売り子の足下まで茶色い水が迫っていた。
 サイゴンからヴィンロンまでの国道1号線は、トラックやバス、バイクが問題なく疾走し、警笛を鳴らしながら前方車両を追い越す。しかし、その両側には床上浸水した家屋が多く見られた。サイゴンの南、ロンアン省でも、メコンデルタ入口の町ミトーが近づくにつれ、水が民家のすぐそばまで迫っている。ティエンザン省ではミトーを過ぎたあたりから床上浸水が目につき、ティエンザン川近くまで来ると、ほとんどの家屋は水に浸かっていた。幹線道路から離れた所へは、小舟を使わざる得ない。そんなときでもたくましいベトナム人は、川になってしまった庭で釣りをしたり、水浸しのカフェでコーヒーすすっていた。
 昨年もメコンデルタ地域は洪水による深刻な被害を受けた。下流よりも上流の被害がひどく、死者のほとんどが子どもだった。過去最大の洪水ともいわれたが、今年の被害はそれを上回り、高水位は11月下旬まで続くと予想される。10月20日付ラオドン紙によると、過去50年で最高水位まで上昇したという。国連児童基金(ユニセフ)や国際赤十字社など複数の支援団体は、さらなる被害を懸念、援助を呼びかけている。また、メコンデルタだけでなく、ベトナム中部、北部でも被害が報告されている。(2001年10月末現在)(もちづき りょうけん・運営委員)

 ロンアン省トゥトゥア村 洪水後の救援を求む!

2001年11月中旬、私たちは洪水に見舞われたロンアン省トゥトゥア村を訪ねた。この村は省の中で1、2番目に貧しい村だ。国道1号線から村の中心地に入るアスファルトの道を通ると、洪水による被害が著しい。コンクリート層がはがれてむき出しになり、鳥の巣のようなでこぼこが無数に空いていて、車や人々が行き来するのもかなり大変である。村の人民委員会の敷地の中で若者のグループが休むまもなく、冠水した場所に籠の中に土をいれて積み上げている姿があった。ロンタイン村やロントゥアン村、タンタイン村、ミィタイン村そしてミィラック村やミィアンなどの村では依然として洪水の被害が拡大している。水位は高いままでしばらく続くこともありえるだろう。人々の生活に深刻な損害と影響が起きている。村の人民委員会の資料によれば今年の洪水によって村全体で11億2300万ドンの被害が予測されている。内訳としては、農作物の被害が2億7000万ドン、農業用道路の被害が1億1000万ドン、水利設備の被害が2億2500万ドン、教育(学校の冠水など)の被害が7000万ドン、そしてもっとも深刻だったのが生活設備の被害で4億5000万ドンである。村全体で3人が死亡しその内2人は子どもが洪水に飲み込まれてなくなってしまったケースである。6家屋がすべて浸水した。47の学校が水に浸かり、数千人の学生たちは1か月ほど休学せざるを得なくなった。家屋や日常用品も水に浸かってしまったため、村人の生活はかなりの困難を強いられている。
 以前から、トゥトゥア村の人々と行政は洪水防止運動を積極的に行っていた。村では、200世帯の交通の不便な地域の人々を他の地域へ移住させたり、洪水がやってくる前に稲の収穫を行ったり、200ヘクタールのサトウキビ畑や果樹園、いくらかの水産物養殖地域を保護したりという措置をとっていた。
 洪水の被害から回復するためには、今年の洪水期の後だけでも交通網の修復や学校の修復で13億ドン以上の経費が必要だ。また村では被害にあった200世帯以上の居住区も提供しなければならない。現在1万7000世帯の家族では1日をおかゆと野菜だけですごすという日々を送っている。これらの家族は、誰も頼る人がいないのだ。休学をせざるを得ない子どもたちも洪水の中で日々の糧を得るために奔走している。それぞれの家族へ120kgの米を支援するとするならば、彼らが生活できるには20万kg以上の米が必要である。しかし1番の問題は作物である。それらの地域では約41トンの稲の苗床や、果物の苗木、そして水産物が必要だ。何百人もの人々、特に子どもたちの伝染病などに対処しなければならない。現在早急な衛生環境の改善が必要とされている。(2001年12月4日付コンアン紙より:翻訳・高橋佳代子)


里親からの手紙

里子を訪ねて
 平成9年、事務局より送られた履歴票の写真から、私たちとドアン君との親子の絆が生まれました。ドアン君は中学1年、恥ずかしそうな写真の顔が印象的でした。その子も今年は高校1年生。わずかな手紙の交換と、さらに会いたいと思う気持のなかで、還暦を過ぎた私たち夫婦にとりましては、今ひとつの勇気が必要でした。そんな矢先、ドアン君より手紙が届きました。私たちの健康を案ずる気持と、火炎樹の花が綺麗で、よい季節だから、是非ベトナムを訪れて欲しいと伝えて来たのです。意を決して、長男夫婦に同行を依頼、9月28日のベトナム行を決しました。
 当日、ホーチミンの国際空港に降り立ったのが、現地時間の21時30分。空港前広場は極端に照明が控えめで暗かった。しかし、旅行社の送迎車でホテルに向う道すがら目にした光景は、別世界そのものでした。バイクの大洪水で、交通法規など皆無とすら思えたベトナム第一歩の強い印象でした。翌日、青葉奨学会事務局の日本人スタッフ、高橋佳代子さんを訪ねた。この件はすでに「ベトナム子ども基金」の事務局より連絡が届いておりましたので、話はスムーズに進みました。
 里子との面会は10月1日、ホテルを早朝8時に出発と決まり、当日、高橋さんと我々家族4人、車中の人となりました。目的地ベンチェー省へ向け、ひた走る車から見える光景はこれといった標識もなく、田園と椰子の木、道に沿って立ち並ぶ家々、言葉には表現のできない素朴な光景でした。メコン川を船で渡り、ベンチェー省教育委員会を経由し学校に到着したのが、11時45分過ぎでした。
 校舎は2年前に完成したとのことで、新鮮な印象でした。高校は2部制で、ドアン君は午後の部。校門前で待機していると、午前の生徒が下校し始めました。男女共学で、制服は、男子生徒は白の開襟と黒のズボン、女子生徒は純白のアオザイで、火炎樹の赤い花と調和して、一層の清潔さを感じさせました。12時を回ったころ、教頭が校内放送でドアン君を呼び出しているとき、一人の生徒が走って来る姿が目に映りました。教室に入って来た生徒に思わず、「ドアン君、関です」。これが最初の言葉でした。成績票に記載された評価は品行良、そのとおりの素直な良い子でした。里親になって本当に良かった。この子が将来、ホゥエ先生が希望される、ベトナムの発展に貢献できる青年に成長すると信じ、さらに見守って行きたいと思いました。それからますます、私たちに希望が湧いて来ました。元気であれば社会人になったドアン君にまた会える、そんな気がいたしました。
 校長の許しを得て、10km程離れた椰子の木に囲まれた奥深い所にあるドアン君の家を訪問。ご両親、弟、近所にお住まいのおばーちゃんにもお会いできましたが、ご家族との会話もそこそこに失礼することにしました。それはドアン君の授業を考えての事でした。
 ご家族との記念写真を撮り、帰り道、ドアン君が私に贈ってくれた彼自身の描いた一枚の風景画。ドアン君は一言、「なにも差上げる事ができません、僕の描いた絵を持って行ってください」。小さな胸の思いを感じながら、私の回想記といたします。最後になりましたが、高橋さん大変お世話になりました。

関   武 雄

◇            ◇            ◇

2001年10月5日

ミン・チャウへ
 こんにちは。お手紙をいただきながら4か月もご無沙汰しております。その後、貴女にはお変わりありませんか。高校3年進級おめでとう。貴女やお母さんと会って4か月が過ぎようとしておりますが、お二人との出会いは楽しかったよ。今でも貴女の親子の姿は私の頭の中から離れることはありません。
 さて、貴女の長いお手紙を読み、嬉しくそして感激し涙がいっぱいでした。貴女は気にしておりましたが、会った時の貴女の言動については何も心配することはありません。人は初対面の時は緊張するもので、ましてや言葉の違う外国人であればなおさらです。ましてや貴女は高校生ですからね。
 貴女は母子家庭で貧しくていじめられ、軽蔑され、家の手伝いで勉強の時間もないなど、大変な苦労をなさっていますが、貴女の心情は充分理解出来ます。私は貴女と家庭環境は違いますが、境遇は似ていると思います。男7人兄弟で私は3番目、父と兄たちの出稼ぎで生活をしておりました。母は日の出とともに田畑で働き、暗くなるまで働いておりました。学校に持っていくお金もなく貧しい生活でした。私は食事を作り、水くみや、ブタのエサにする残飯を各家からもらい集めて歩くのが日課でした。大変だったけれど、明るく温かい家庭がありました。今考えると、貧しい生活から色々な事を学びました。人は貧しいこと、困難なこと、厳しさから、感謝や思いやり、人の心の痛みや慈しみ、気配りなどを覚えるという事です。大人になったら両親を楽にしてあげたい、家族のためにと常に目的をもって今まで働いて来ました。今は貧しかった事に感謝をしております。貴女も今は大変でしょう。しかし、ベトナムでは貴女の生活環境以上に厳しい人がいっぱいいる事を忘れないでください。
 今の生活経験と、体の弱い母を想う強い心をもって、お母さんを楽にしてあげたいという目的をもっていれば、貴女のこれからの人生は明るいと思います。目的を達成するには常に努力が大事です。努力をしていれば幸せは貴女のそばに寄ってきます。この1年は貴女の人生にとって大事な時です。目標に向かって頑張ってください。貴女の観光案内を楽しみに、また手紙の中でご紹介のフエの料理を、貴女とお母さんと食べに行けるよう訪問を計画します。期待して待っていてください。何事も体が大事ですから、無理をなさらないで頑張ってください。お母さんの健康にも気配りしてください。貴女のお父さんの代わりは出来ませんが、近況をお知らせください。
 高校生活最後の年、楽しく思い出の残る1年である事を祈っております。

佐 藤 春 美


Gap Lai Nhe また会いましょう

高 橋 佳 代 子

文化の違い?

「国が違えば習慣もかわる」
こんな当たり前のことに時々とてつもなくいらいらする時があります。
 ベトナムは私にとってとても住みやすい国なのですが、いくつかの習慣がいまだになじめません。
 それは列を作らないこと、並ばないことです。あれは西暦のお正月のある日、ひさびさの休日にスーパーマーケットに買出しに行ったときのことでした。
 私も休日に行ってしまった事がまずいけなかったのですが、すごい人の混み具合なのです。娯楽の少ないベトナムでは、何も買わないウインドーショッピングをするため、スーパーマーケットに家族連れ、恋人、そして地方からは観光をしにやってきます。
 失敗した! しかし、来てしまったものはしょうがないとつぶきながら、覚悟を決めてカゴをもって品物を選び終え、レジに向いました。
 そのスーパーはサイゴンの中でもかなり大きいので、レジは全部で10個所ぐらいあるのですが、それでも今日はかなり混んでいます。
まあこんなことは日本でもよくあることなので、レジに並んだのですが…。どうしたのでしょう。6割以上の人が並ばないのです。
 明らかに後から来た人が割り込み、そして悠然と先に支払いをしているではないですか。
それがたった1人なら我慢も出来たのですが、みんなそうしようとするのです。あまりにも腹がたったので「XEP HANG DI」(ベトナム語でちゃんと並びなさいよという意味)と言ったところ、言われた人がきょとんとしているのです(私のベトナム語がわからなかったのではありません。あしからず)。どうしてそんなことを言うのだという表情で私を見ています。
 その反応に私の方がびっくりしました。さすがにその後は割り込む人もなく、つられて他のきちんと並んでいる人も注意しはじめたので、無事に支払いは出来ました。
 でもなんだかその日は1日中すっきりしない気持ちで過ごしました。
 数日後、年配の日本の方にこの話をすると、「何言ってるの、ちょっと前の日本もそうだったのよ」という答えが返って来てはっとしました。
 今でこそ日本は物が溢れる時代ですが、私の両親の時代は好きなものがいつでも買える時代ではなかったと。
 今のベトナムも豊かになってきたものの、人よりも少しでも先に自分が行かないと、乗り遅れても誰も面倒を見てくれないという憂いのほうが強いからこのような行動になるのかということに改めて気づきました。
 いまだに列を作らない習慣にはなじめず、いつも「XEP HANG DI」を連発している私ですが、この言葉を使う必要がなくなった時、ベトナムはどんな国になっているのだろうと少し複雑な気持ちです。(たかはし かよこ・駐ホーチミン市スタッフ)


人情の街サイゴン その6

脇 平 裕 美

ちょうど友人が訪ねて来たので年末年始は二人で街の中心のミニホテルで一緒に過ごすことにした。話はそれるが、このころは2か月に1度のペースで友人が私を訪ねてきてくれた。しかもなぜかみんなツアーではなく個人旅行。さらに案内役はまだ自転車しかなく、ましてや道も満足に知らないこの私、である。もともと面倒くさがりの性分、こうなったら私も旅行者になりきるしかない。授業が終わった後で、スススーっと学生やベトナム人の先生に近づき、「あのぉー、○○に行きたいんですけどぉ…」「あのぉー、○○を食べたいんですけどぉ…」と、甘い声でささやく。返事はたいてい、「あ、いいですよ、先生。では一緒に行きましょう」だ。
 こうして私は自己嫌悪に陥る。なぜなら、日本人と日本語を話したい彼らの気持ちをよぉーく知っている自分が、またまた知能犯に変身してしまったからだ。食事はもちろん、彼らにはバイクで様々な場所へ案内してもらった。観光地や海、果ては釣堀まで。ここではなぜか、魚のえさはバナナだった。
「せんせい、ベトナムのさかなはバナナをたべます。においでわかります。なれていますからだいじょうぶ」
何が大丈夫なんだか。もちろん1匹も釣れなかった。
 そういえば郊外の遊園地らしき場所にも連れて行ってもらった。一応いくつかの遊具(としか言いようがない)が設置されている。いつひかれてもおかしくない路面列車、3分ほどで1周する観覧車(気の済むまで乗ってOK)。極めつけは、高さ5メートルほどの位置に作られた線路を足漕ぎで進む乗り物だ。ネジが1、2本ゆるんでいるのかと思わせるほどぐらぐらしながら進む上に、眼下に広がるのは、な、なんと、大きなワニ園。ジェットコースターとは違う恐怖を味わえること請け合いだ。
 さて、わざわざ機会を作って友人たちが来てくれることは本当にありがたいことだった。同時に、まだベトナムのことをまだ何も知らない自分が情けなかった。また私は、彼らの感じるベトナムを聞くことによって何度もはっとさせられた。緑の濃さ、空の高さ、街並み、におい。当初、自分も確かに感じていた“だからベトナムやねん”が消えかけている。わかっているつもりが全然わかっていない、知ってたことを忘れてしまっている。“初心忘るべからず”とはよく言ったものだ。むわっと暑い夜中の空港に到着した自分をもう一度思い出そう。
 さて、初テト。数年前は爆竹が鳴り響いていたらしい。でも危険なので禁止された。なぜ危険なのか。答えは、「その爆竹を人の背中に入れてしまう不届きモノが多数いたから」。察するに、テトは人を狂わせるほど楽しいイベントなのだ。その後は爆竹の音を録音したテープで盛り上がっていたらしい。テトのためならえんやこら、である。しかし、それも禁止された。きっとうるさすぎたのに違いない。さて、今年は何が待っているのだろう。
 果たして、何も待っていなかった…。例年どおりの獅子舞が、人ごみの向こうでちらりちらりと見えるだけ。その上、その晩だけでも100件はスリが発生してそうな人の山である。「かえろか」。友人と二人で声をそろえてミニホテルに戻った。
 そこには、ホテルの家族の人たちが満面に笑みを浮かべて待っていた。夜中なのにえらく盛り上がっている。(わきひら ひろみ・前駐ホーチミン市スタッフ)


■□◆◇
ベトナム点描 −デルタの洪水

中 原 和 夫

ベトナム子ども基金のホームページに掲載されたメコンデルタの洪水に関する記事を読んで、私も思いだした。その記事は10月17日(水)のメコンデルタの様子について書いてあるが、私は、その前日にメコンデルタの増水しつつある状況を目の当たりにしてきた。
 10月15日(月)に、ホーチーミン市デタム通りの旅行会社シンカフェにメコンデルタ・ツァー参加を申し込みに行った。ミトー、ベンチェー周辺だけの1日ツアーで料金は7ドル。
 シンカフェのカウンターで教えてもらった近くの店に簡易型レインコートを買いに行った。店のおばさんに「トイ ムオン ムア アオ ムア」(私はレインコートが買いたい)と言うと、各種のレインコートを出してくれた。私は、シンカフェのオネーサンの推薦どおりに、一番軽い2000ドン(約24円)のものにした。1度使えば破れてしまいそうな代物だが、持ち歩くのにはこの程度のものがよい。
 10月16日(火)朝、シンカフェ前よりバスで南へ向かう。客は30人近かったように思うが、半分は日本人。ミトーの船着き場でボートに乗り換える。あとは、どの旅行案内書にも書いてあるとおりの場所をめぐる。午後になって、細い水路へ入って行くと、水面よりも家屋の建っている地面のほうが低い。水を防いでいる土手の上すれすれまで水位が上昇している。流れも、いやに速い。川岸のココナツキャンディー工場を見学している間に、どんどん水が押し寄せてくる。工場の床が見るみる水に覆われていく。ツアーの一行が船に戻ろうとしたときには、既に周りが水でいっぱいになっていて、船に近づけない。工場の人たちが太い材木を運んできて船べりに架け、この上を歩いて船に乗れと言う。客は皆、水の中に入った男たちに手を取られて、そろりそろりと材木の上を歩いて船に乗った。誰か水の中に落ちるのではないかと見ていたが、全員無事に船に乗ることが出来た。
 15時ころ、ミトーの船着き場に戻ったとき、待合室からバスの駐車場までの道は、水没していた。皆、しばし呆然。ガイド氏は、「よし、靴を脱いで行こう」とこともなげに言い、さっさと靴を脱いで水の中をジャブジャブ歩き出す。我々も仕方なく裸足になって靴を手に持ち、水の中へ入っていった。
 水深は20〜40cm程度ある。距離も結構長い。やっと駐車場にたどり着いたが、足を洗う場所もない。仕方がないので、裸足のままバスに乗り、自然に乾くのを待つことにした。バスを降りるときに靴を履いたが、靴下は靴の中を汚さないためにはいたようなものだった。
 ホーチーミン市への帰りに、再び国道1号線を走った。16時ころ、ロンアン省タンアンの郵便局横の大通りが、乗用車の車軸あたりまで水没しているのを目撃した。国道1号線は、冠水していない。メコン川に連なる河川の水位がこのように急上昇していたのを考えると、次の日(水曜日)の川べりは、別項の報告にあるように、かなり大変な状況だったのだろうと思う。
 結局、レインコートは使わなかった。それより、素足にサンダルを履いていくのが良かったのだ。前日に、サンダルを探してみたことはみたのだが、高かったので買わなかったのがまずかった。(なかはら かずお・運営委員)

前号の続編「歌謡ショー(2)」は、次号以降に掲載します。(編集部)


事務局より

明けましておめでとうございます。昨年はいろいろお世話になりました。今年も里子へのご支援どうぞよろしくお願いします。
 久しぶりでスタディツアーを行います。今回は、旅行代理店に任せられるところは任せて、里子との面会、ホーチミン市の青葉奨学会代表のホゥエさん、駐在の高橋佳代子さんとの懇談会を事務局でアレンジしました。
 ツアー2日目には、2000年11月に会員のみなさまのご支援を仰ぎ、現在ロンアン省に建設中の避難所兼学校の開校式に出席できる可能性もあります。
 なお、今回の里子との面会は、主にホーチミン市在住の里子を中心にしましたが、みなさまのご要望があれば、次回以降、他の地方にも広げていきたいと思います。
 みなさまのお手元に、書き損じの葉書(未使用なら古いものでも可)、お使いにならない記念切手などありましたら、お送りいただければ幸いです。書き損じ葉書は、郵便局で切手に替え、会員のみなさまにお送りする本通信などの送料として、当基金で役立たせていただきます。
 12月にドンズー日本語学校から日本に留学している学生たちの忘年会がありました。その中に一人若い詩人がおり、彼が詩を3編朗読してくれました。わたしの実力では、詩の内容までは理解できませんでしたが、ベトナム人は感心して聞いていました。印象に残る忘年会でした。


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