「ベトナム子ども基金通信No.18」より


ホゥエさん来日懇談会「人材の育成に努めたい」

ベトナム子ども基金は8月4日、来日中のベトナム青葉奨学会代表のグエン・ドク・ホゥエ氏を招き、アジア文化会館で懇談会を開催、33名の会員が参加しました。ホゥエ氏は青葉奨学会の運営について報告、奨学金の支給対象が全国規模に拡大していると述べました。また、ベトナムはどんどんよくなると強調、今後は子どもたちへの精神的支援に力を入れ、将来を担う人材の育成に努めたいと抱負を語りました。

ホゥエ 暑い中、私の話を聞くためにお集まりくださり、どうもありがとうございます。
 昨年8月、ホーチミン市で全国奨学会の集会がありました。私は直接参加しませんでしたが、各省の奨学会の代表が集まり、その場で青葉奨学会の活動が報告されました。全国の20数省に奨学生がいますが、その代表にドンズー日本語学校に集まってもらい、青葉奨学会のことを説明しました。みんな感激して、いままで奨学金の支給のなかった省にも支給してくれるように要請を受けました。
 それから、私が直接ハノイに行き、今まで奨学金を配っていなかったところにも差し上げるようになりました。北部では5件増えました。中部では、フエの北の元国境地帯で、戦争が一番激しかった地域ですが、今年から奨学金を支給しています。南部はメコンデルタが多かったのですが、昨年からカンボジア国境近辺と高原地帯にも支給しています。現在、北から南まで奨学金が配られております。
 事務局の方は仕事に慣れてきました。スタッフの高橋さんをはじめ、チームワークが非常によい。事務局はみんなで地方に視察に行くようになっております。
 現在、奨学生の数は468人です。これは、日本も厳しい経済状態にあるので抑えているからです。地方の増やして欲しいという要求は多いのですが、我慢してもらっています。
 奨学生の人選については、里親からの意見もあるし、事務局からも意見が出ています。今までの方針は、優秀で貧しい子どもたちでしたが、貧しい子どもにはやはりハンディーがあります。例えば、机がなければ床で勉強しなければなりませんし、弟や妹の世話もしなければなりません。そういう状況の中、成績は中くらいで、優秀な学生にはなりにくい。もちろん、私たちは金持ちの子どもは選びません。しかし、優秀な子どもは裕福な、あるいは中くらいの家庭の子どもが多いのです。人材育成が建前ですが、あまりこだわるとよくないんじゃないだろうか、だから今回条件を相談して、成績が中くらいだったら、上まで勉強できる子どもに支給した方がいいんじゃないか、という意見があります。もう1つの意見は、できるだけ小学生に奨学金をあげたい。同じ金額でも、小学生のほうが人数が増えるわけです。それから3番目は、地方に行けば行くほどベトナムの社会の格差がわかるんです。ホーチミン市は栄えています。だから、貧しいといっても田舎ほど困っていません。だから今後は奨学金は全部地方−−特に中部と北部の貧しい地域−ーに回したいと考えております。
 学校建設は小学校の建て直しと、1つの中学校に5つの教室を作り、地方にはない立派なものになりました。それ以外に今2つの学校建設を進めております。1つは洪水被害の大きいところで、学校兼避難所として中学校を建てることになりました。ただ、この付近は洪水になると全部水につかりますので、私の要求で床は1メートル高くしました。土地の造成は6月に終わりましたが、工事関係者と相談して、基礎がしっかりするまで3か月待ち、着工は今年の11月になる予定です。
 それからもう1つの学校は、静岡県磐田市のユネスコ協会が募金をして建ててくれました。子ども基金の学校から150キロ離れたところで、国境の近くです。学校のないところで、そこに教室を7つ作ります。8月30日に完成、9月5日に開校の予定です。引き渡し式は、10月11日に予定されています。
事務局 昨年、子どもたちに対する物質的支援はある程度できてきたが、精神的支援がきちんとできていないというお話でしたが。
ホゥエ 子どもたちの精神に訴えていくために、毎月1回、青葉新聞を出しております。今はまだ内容が乏しいですが、少しずつ、国のこと、生きることなど内容を増やしていきたいと思います。
会場 私も里親をしているんですが、子どもがかなり上級の学校まで行くことを希望しています。それなりの成績であればやはり最後まで見届けてやりたいというのが私たちの心情なんですけれども。
ホゥエ 実は私も矛盾を感じております。青葉奨学会の最初の目的は人材の育成です。人道的な事業ではない。貧しいから助けてあげるという目的ではありません。優秀な生徒を育てて、将来、社会のために貢献してもらいたい。そして、彼らの時代になったら、彼らが自分の後輩のためにやってくれるようになることが最初の目標でした。しかし、そのやり方にだんだん矛盾を感じるようになりました。1つは本人が勉強できるところまで、大学を卒業できるところまで勉強させてあげたい。しかし、例えば小学1年生から支給すると16年です。1人を16年間面倒見たら大変な金額になるし、1人が独占してしまう。ほかにも貧しい子どもがたくさんいます。ですから、皆さんには高校まで援助していただいて、大学になれば本人が自立できるじゃないかと思うのです。しかし、里親のご意向としては、どうしても情が入っています。そして、私たちは反対するというのではなく、感謝しています。ですが、同じ100ドルなら、小学生2人に支給できる。新しい里親の方には、できれば、小学生からお願いしたいのです。
会場 ベトナムから参りました、ホゥエさんの後輩です。いま奨学金をもらっている学生たちは非常に感謝して勉強していると思いますが、大人になって貧しい子どもたちを援助するようになるのを待つのではなく、奨学金をもらっている子どもたちを連帯させるということを、考えていますか。それから、資料によると管理費が8%となっているんですが、これは計画的にやっておられるのかどうか、参考までに教えていただきたいと思うのですが。
ホゥエ 成長した奨学生が今後も青葉奨学会にかかわっていくことは、私も考えています。それから学生たちは、先輩として後輩の世話をしてくれます。それから管理費ですが、特に会計の方は大変お金に厳しい。手当ては交通費しか支給していません。それ以外はファックスや紙だけ。接待は1年間で1回もないです。実費だけしか使っていません。
会場 この子ども基金ができたのが95年で、当時から小学生が4ドル、中学生が6ドルで変わってないように思いますが、数日前にホーチミン市から帰国した友達によると、給料は以前に比べると倍以上になっているそうです。この4ドル、6ドルがどれほど役に立つのか伺いたいんですが。
ホゥエ 確かに生活水準は向上しています。ホーチミン市の公務員や労働者の給料も上がっていますが、地方はほとんど変わっていません。しかし、価値が違います。お米を買うことができます。お米さえあれば、野菜は自分で作って、魚は自分で獲る。生活費としてはお米を買うだけです。地方では4ドル、6ドルは価値があります。
事務局 地方に奨学金を広げる際、送金の問題はないのでしょうか?
ホゥエ 各省は2〜3年前から、教育に関心を持ちはじめました。政府も力を入れています。特に退職した役人たちが、現職のころにできなかったこと、教育に力を入れています。だから、どの省・県にも必ず奨学会があります。私たちは彼らを信じて任せています。送金のことは、郵便で間違いなく届いています。送ったお金には書類も添付しており、それに学生がサインして、ちゃんと返送してもらいます。いままで1度も事故がなく運営してこれました。
事務局 奨学会というのは奨学金じゃなくて、学習を奨励する会ですか?
ホゥエ そうです。例えば貧しい子どもが学校に行けない。だったらちゃんと親を説得して勉強させなさいと。奨学金は全然ない。だからみんな喜んでいます。
事務局 どうも皆さん、お忙しいところ、ありがとうございました。


里子からの手紙

2001年5月30日

敬愛なる里親様!
 今私の国では夏の初めです。そして夏は私たち子どもの一番好きな季節でもあります。でも夏にも嫌いなところがたくさんあります。
 夏の嫌いなところは、よく雨が降ることです。私の家の道は赤土で、雨が降るたびになんとまあ素敵なぬかるみになることでしょう。2つ目は、恐ろしいほどの暑さです。まるでオーブンの中に入ったようで、昼下がりともなると恐ろしいことに人間の蒸し焼きができそうです。3つ目は、夏休みになって学校に行かれないので、冗談を言ったり遊ぶ友達がいなくて寂しいことです。
 夏はこのように煩わしくつまらないので、牛のようにだらだらする悪い癖が体に入りこんでしまって、本当にだるく眠たくなるばかりです。
 里親様、私はお城でお姫様が眠っているような気分で眠っていたら、母に長いムチでたたき起こされました。ムチのお蔭でやっと目が覚め、この手紙を書こうと思っていたことを思い出しました。
 里親様、お許しください。急に私は長く書かなくてはなりません。幸い、母は私に外出禁止の罰を与えました。この10日間ほど家の外に出ることを禁じられ、鍋や食器洗いをしなくてはなりません。まったく!
 もう言うことがありません。
 里親さま、もう一度、私は里親様にお詫びしたいと思います。里親様が私に罰を与えたければ、私はどんなことでも構いません。例えば、ずっとしゃがんでジャックフルーツの皮をむくとか、どんなにたくさんの豚でも我慢するとか。
 今年はこれまでの学年と変わりありませんでした。今までのところは家の話でしたが、次に学校の話をします。学年末に私は非常に優秀な生徒に選ばれました。
 今年の賞品は、学校のノートのほか、1、2、3位の生徒にはダムセン・ウォーターパークの入場割引券も与えられました。上位3位に入れなかった生徒はがっかりして羨ましがっていました。ある生徒など、ばったり地面に倒れてしまいました。幸運なことに私は2位に滑り込むことができました。
 何もなければ何も起こらなくていいのですが、何かあるとそれがまた大変なことになります。これも「おろおろ病」から起きた出来事で、私たち兄弟は、割引券の表だけ見て、裏を見ませんでした。
 その夜、割引券を家に持って帰って自慢しました。弟はそれを見つけると、大急ぎで隠してしまいました。あまりにもショックで私は走って母に言いつけに行きました。しかし、そのとき母は台所仕事をしていたので、私は立ち尽すしかありませんでした。
 熱い涙で目が膨れ上がり、ぱんぱんに膨張して自分もはちきれてしまいそうでした。
 私がその券を弟の棚から見つけ出したときには、再び兄弟で戦争が勃発しました。1枚の券は1人が使うものだと思い、私たち兄弟は力ずくで奪い合い、もう少しで券が破けてしまうところでした。父が仲裁に乗り出し、ようやく活火山は沈静化しました。その券をじっくりよく見てから、父は私たち2人の背中に赤いみみず腫れをプレゼントしてくれました。というのは、その券はあと3人まで使えたのです。裏面の注意事項にそう書かれていたのです。えーん、えーん(泣)…。
 私は里親様に私の家族をご援助いただいたお礼を申しあげるためにこの手紙を書いていますが、関係のない話を長々と書いて紙を無駄遣いしています。
 最近、私の父の生徒がみな辞めてしまって、私の家は収入がまったく無くなってしまいました。たぶん里親様はご存知なかったでしょうが、父は収入を増やそうと家で家庭教師を始めたばかりでした。しかし、生徒たちが誘い合って遊びに行ってしまうので、またもや少し大変な状態です。
 今まで私は里親様に何千回も感謝してきました。里親様がご援助くださったお金は、母がしっかり貯めておいてくれたお蔭で、必要になったときに初めて使い、また必要になったら使うようにしてきました。私は、感謝と尊敬の気持ちを申しあげる言葉もありません。
 少し、手紙が長くなりました。ちょっと、ちょっとだけですよ! もし機会があったら、3か月の夏休みについてお話ししたいと思います。
 たぶん私は少しおかしな手紙を書いているかもしれません。でも大丈夫、私の友達はみな、私のことを「ぷんぷん(怒りんぼ)」と呼びます。
 あらためてもう一度、里親様に感謝申しあげるとともに、里親様のご多幸をお祈り申しあげます。また私たちに与えてくださったものと同じ喜びをご家族様にもお与えくださいませ。そして、今日本がどんな季節であっても、里親様がご健康を維持され、あまり働きすぎませんように。

里親様の子ども                 
チャン・グエン・バオ・ゴック・クゥィン

追伸:私の怠け病を治療するために、母が家で料理を教え始めました。もし里親様が私の家に立ち寄られる機会がありましたら、私の才能をご覧に入れたいと思います。大変だ!ご飯が焦げた!ご飯が焦げた!

里親からの手紙

スオン様
 あなたが縁あって私の里子になったことを知り、嬉しくてさっそく筆を執りました。はじめまして。
 日本とベトナムは同じアジアとはいえ、とても遠く離れています。でも、この広い世界の中、あなたと知り合えて心から嬉しいです。
 私は26歳、日本の私立大学で働いています。私がなぜ里親になったかというと、私自身が教育を受けることによって、素晴らしい人生を歩んで来た、また歩んでゆける、そしてそれを同じ女子生徒にも味わって欲しいと願ったからです。
 私は大学で歴史と教育を学びました。スオンさんは私と一緒で歴史が得意な様ですね。私は歴史(世界史)の教員免許を持っているから、なんだか歴史が得意な生徒に出会うと嬉しいです。
 ただ、何よりも私が願うのは、スオンさんが心から安心して自分の好きなことに打ち込み、素晴らしい学校生活を送ってくれることです。写真で見るあなたの目はとても綺麗な瞳をしています。是非その輝きを失わないでくださいね。
 それでは、また手紙を書きますね。体を大切にしてください。お父様やお母様にもよろしくお伝えください。

2001年6月8日

金 子 麻知子


−メコンデルタのすすめ−

高 橋 佳 代 子

7月**日晴れ。今日は田舎へ行く日だ。朝6時半集合。「早めにいっとこう」と思って10分前に着いたらなんとみな来ていた。ベトナム人の時間を守らないというのは、あなどれない。
 今日の目的地はベンルックとカイベというメコンデルタの街。私が働いているところはベトナムの子どもたちへ奨学金を支援しているのだが、1年に数回は地方の子どもたちの様子をスタッフやボランティアスタッフもわかっておかなければ、というはからい?でメコンデルタの街に決まった。
 話を始める前に、少しメコンデルタの話をしよう。ベトナムという国はアルファベットのS字に似ているといわれるが、メコンデルタはその最も南のデルタ地帯である。日本でいうと九州のような位置になるだろうか。メコンデルタには合計12省があり、人口約1600万人、全人口の約21%を占める。
 メコン川はラオス、カンボジアを流れ、そしてベトナムを流れて南シナ海へと注ぐ。メコン川といっても1つの川があるわけではなく、いくつかの大きな川を総称してメコン川と呼ぶ。そして大きな川にはいくつもの支流があり、小さな運河が築かれ、肥沃なデルタ地帯を形成する。はじめてメコン川を見たときは海かと思い、はじめてデルタを見たときには一面の川に見えた。南部のベトナム人は「川」というとメコン川を思い出すから、日本の川という概念を想像するのが難しい。
 最初の目的地はロンアン省のベンルックという街。この省はメコンデルタの入り口にあたる。国道1号線を通ってサイゴンからは道がすいていれば約1時間半で到着する。中学校の先生との約束の時間は9時だというのに、なんと8時前に着いてしまった。日本人なら、どこかで時間をつぶして約束の9時に学校へ行くのが普通だ。しかしここはベトナム。「来ちゃったものはしょうがないから行ってしまえー」というノリで、さっそく学校訪問に入る(ちなみにこの日は5人で出かけた。もちろん日本人は1人である)。
 学校には大きな池があってその周りに男子学生が遠巻きに見ている。女子学生は校内清掃の日なのか、草むしりをしている。今日の学校訪問のメンバーはかなり平均年齢が高かった(たぶん48歳くらい)ので、学生たちはあきらかにびびっていた。唯一私が学生に一番近いのである(それでも15歳ぐらい離れている)。職員室へ挨拶に行くが、校長先生はまだ来ていない。外で何人かの生徒と話をしようと試みる。「名前は?学年は?」みんな素直に答えてくれるからここらで一つ写真でもと思ったとき、スタッフのマイさんが「彼女は日本人なのよ。でもねベトナム語がわかるの」と紹介した途端カメラに笑顔を向けていた子たちが一斉に逃げ出した。私もマイさんも「逃げなくても大丈夫」と何回も言うのに、写真を撮るそぶりをした瞬間さっと散っていく。田舎の子にとって外国人はまだまだ客寄せパンダなのだ。はじっこから私の行動を興味津々で見つめている。そんなこんなしているうちに校長先生がやってきた。8時15分ころである。もちろんだが生徒たちは来ていない。たまたま草むしりをしていた生徒が奨学金の支援を受けていたのでさっそく彼女の家へ「突撃訪問」することにした。学校から3分間ぐらい車に乗って、それからたんぼのあぜ道を歩く。私は子どものころ、よくあぜ道を歩いたのでなんの違和感もないのだが、他のスタッフは都会の人ばかり。15分の道のりを大騒ぎしながら歩いている。ちょうど稲穂がすくすく伸びている時期で農家の人が雑草を抜いている最中だった(写真)。
 たんぼの真中に立つと風が吹いてきて緑の匂いが漂う。私の田舎と同じ匂いがした。
 四方をたんぼに囲まれたその生徒の家は、ぜいたくなものはなかったけれど生活に必要なものはそろっていた。お母さんは32歳で2人の子どもがおり、夫婦で農業を営んでいる。米は1年に2回ほどとれるがお米を売ってもたいした金額にはならないらしい。だから農業の合間に日雇いをして生活費を稼いでいる。
 家の周りには、まるまると太った巨大オクラが生えていて、スタッフ一同いいオクラだと絶賛していた。またパパイヤの樹や野菜サリー(さくらんぼに似た果実)の樹もあって、ハンモックも備え付けてある。牧歌的な光景だ。しかし、もし雨が降り続いたり集中豪雨がやってくると家は水に浸かり国道へ出ることもままならない。
 10分ほど雑談をして、時計を見るとすでに9時を過ぎている。その後もう1件足早に突撃訪問を行い学校には立ち寄るま間なく次の目的地カイベに向かう。その際、おみやげにココナッツをもらった。あと庭に生えている巨大とうがらしももらった。ベンルックからカイベまでおよそ1時間半。約束の時間は10時。ベンルックを出発したのが10時前だから到底約束の時間には間に合わない。こんなとき日本人だったら青くなるが、さすがおおらかなベトナム人。「しかたがないよね」と言って終わる。
 カイベはティエンザン省の街の1つである。約束の時間を大幅に過ぎて学校へ到着。12時前である。
 ここは小学校だったが今日のためにカイベで奨学金を受け取っている学生を呼んでくれていた。この地域では中学生からアオザイと呼ばれる民族衣装を制服に着ていた。学校の建物がかなり老朽化していて、やしの葉で葺かれた教室で勉強している。この地域はベンルックと違っていろいろな職業の選択はあるが、奨学金をもらっている家庭はほとんど日雇いの仕事しかしていないらしい。この学校ではさすがに外国人といって逃げられたりはしなかった。先生がこの地方の特産物であるロンガンとランブータン、バナナをくれる。そしてまた突撃訪問である。本当に突撃だったのでおばあちゃんしか家にいなかった。おばあちゃんはびんろう樹の実とキンマの葉をかみながら(写真,これに石灰を砕いたものを同時に口にいれると一種の覚醒作用が起こる。地方のおばあちゃんがよくかんでいる)家の事情を話してくれる。両親も日雇いなので大変なのだと…。おばあちゃんと一緒に写真をとり、お礼をいって家をあとにした。
 時計は1時半をまわっている。サイゴンへ何時に着くか…。途中で遅い昼ご飯をとりひたすら帰路を急ぐ(といっても私たちはどうもできなく運転手によるのだが)。
 みんなお昼寝タイムだったが、なぜか今日に限って眠くならない。私は遠い日本のこと、ベトナムの事、将来のことなどに思いふける。メコンデルタの色は本当に美しい。自然の艶やかな色が本当に魅惑的だ。空の色、花の色、稲の色、そして人の表情。やはりサイゴンという都会にはない匂いと空気がある。
 そして再びベンルックを通り過すぎようとするとさっき会った校長先生が手を振っている。何事かと思いきや、15キロのお米と20個のパイナップルのお土産を渡すために待っていてくれたのだ。メコンデルタの人は人が本当にいいと聞いていたが、まさしくその現場に出くわしたのである。おみやげを満載した車は、交通渋滞にも巻きこまれず、4時にサイゴンに到着した。
 再びサイゴンの喧騒の中に戻り、メコンデルタのことを考える。おおらかな人が多く、美しい田園風景と花が咲いている街、メコンデルタ。しかしその裏には農作物の安さと、失業率の高さ、毎年の洪水の被害にさらされる、という厳しさも持っている。
 やはり、あまり気安く「メコンデルタは美しい」とか「豊かだ」と言ってはいけないような気がする。でも決して貧しくはない。今の日本のほうがまだ病んでいるし、貧しい。
 日本のみなさんは、このメコンデルタの街をどんな風に感じるのでしょう。豊かだと感じるのか、貧しいと感じるのか、それとも行ってみたいと思うか? もし行ってみたいと思った人、今がチャンスです。チケットを買ってベトナムに来てください。(たかはし かよこ・駐ホーチミン市スタッフ)


人情の街サイゴン その5

脇 平 裕 美

有言実行。断ったからには私は本当に一切予習・復習をしなかった。でも授業はがんばって出たつもりだ。クラスメートは同僚の日本人二人。やる気十分。忙しさは同じハズなのになぜか予習も復習もしている。
「あ、これ、この前勉強しましたよね」
「そうですよね」
「……」
「この単語、確か5ページほど先にありませんでしたっけ?」
「ああ、私も見ました」
「???」
 勉強というものはとかく環境に左右されがちだが、私はこの二人に本当に感謝している。たった数か月だったが私は“切れそうになった命綱の最後の一人”の気分で勉強することができた。そして何よりも私が学んだのは、「自分の教えているクラスにも必ずこういう足を引っ張るヤツがいる。そしてそれを助けてくれる仲間もいる」ということだ。もちろん、いったん教壇に上がるとついつい、「はぁ…。これ、先週勉強しましたよね?」「○○さん、人に聞かないで自分で答えてください」などと毒づいてしまうのだが、まさにその瞬間に学生たちの気持ち、そして何よりも自分の先生の気持ちが見事に想像でき、心の中で頭を下げる。先生、ごめんなさい。
 それでも私はめげずに自分のペースで勉強した。復習は社会勉強をかねて近所の道端で。
 なんせベトナムの人は少しでも発音が違うと、顔中のしわを寄せて怪訝そうに、「はぁ?」と聞き返す。その恐ろしい形相と声音にたじろいで尻込みしてしまいたくなるがここでがんばる。
 これはきっとベトナム語、いやどんな言語を勉強したって通るべき道だろう。バナナシェイクが通じなくてバニラシェイクが出てきた留学時代。パイナップルジュースが飲みたかったのに2分後にはなぜかココナッツジュースのおいしさを再認識する羽目になっているサイゴンの街角。
 そういえば、“日本(Nhat Ban)”と“友達の家(Nha Ban)”の違いがまったく発音できなかったころもあった。例によって、ぼぉーっとコーヒーを飲んでいた時、店の前に公衆電話が見えたので、「これ、日本に電話できるの?」(国際電話という言葉を知らなかったので…)と、おばちゃんに尋ねると、
「どこに電話するのん?」
「え?日本」
「だから、どこに電話するのん?」
「え?だから、日本」
二人ともどんどん声が荒くなる。結局電話のそばにあった国際電話料金表を私が見つけ、話は解決。この会話、“日本”を“友達の家”と入れ替えて読んでみると、そりゃなんとも情けない会話だ。おばちゃん、ごめんなさい。
 話は変わるが、ベトナムの道にはすべて名前がついており、それと数字をあわせて「○○通りの何番地」というふうに、住所さえわかれば郵便屋さんでなくても簡単にそこへたどり着ける。しかし当然のことだが、通りの名前もベトナム語、である。バイクタクシーやタクシーに乗ったとしても、これが言えなきゃぁコトは始まらない。
 一度、日本からの友人たちを連れてタクシーに乗ったことがあった。行き先はカタカナの「レ・タン・トン」と私の脳にインプットされているだけ。そのまま「レ・タン・トンに行ってください」と言ってみたが、もちろん通じない。困った。南部のベトナム語には5種類の発音の仕方があるので、単純に計算すると、この3語の言葉は5の3乗イコール125種類の発音の仕方があることになる。そんなどうしようもない計算をしている間にもタクシーは走りつづける。運転手のお兄ちゃんも困っている。私も困っている…。しょうがない。私はとりあえず適当に発音記号をつけていろんなパターンを試してみた。
「れ・たァん・トン? レ・たん・とぉん?れー・たーん・トン?」
お兄ちゃんもそれっぽい通りの名前を適当に挙げてくれる。すばらしき共同作業。しかし友人は横でくすくす笑っている。あ〜、こんなことならこれだけでも練習してから乗ればよかった…。そして数分後、そのうちの1つが見事にお兄ちゃんのツボにはまった。
「あぁ〜、Le Thanh Ton ね!」
こうやって私たちは無事目的地に到着できたのだった。面白いことに、こうして恥をかいて覚えた言葉は決して忘れない。ありがとう、お兄ちゃん。
 このころから、私はようやく道の名前を覚え始めた。授業の後や遊んだ帰り道に、ちょっとだけ遠回りをして帰ってみるのだ。もともと地図を見るのが嫌いな私は、道に迷っても手っ取り早いのでその辺の人たちに聞く。もちろん答えは聞き取れないが、「ありがとう」とだけ言ってその人の指差す方向にひたすら進むのである。しかし不思議なことに、誰に道を聞いても必ず答えが返ってくる。そして気づいた。彼らは「とりあえず」どちらかの方向を指差してくれるということを。そして学んだ。道に迷ったら最低3人に聞いて多数決を取るべきだということを。
 いろいろ探検を始めると、自分の住んでいる場所がかなり街のはずれにあることに気づいた。しかも夜は帰宅したら門番の人にいちいち戸を開けてもらわなければならない。ベトナムではこういうタイプの家が大半なのだが、これでは気の済むまで(?)遊べないではないか…。私は引越しを決意した。
 条件は、自分で鍵を持たせてくれるところ、ごちゃごちゃした路地にある、の2つ。そしてなんと、1軒目の家で理想的な場所に理想どおりの条件にめぐりあえた。後々、何度も友人や学生に、「なんでこんなトコに住むん? ごちゃごちゃしとうし…」「せんせい、この近くは治安があまりよくありません」
などと眉をひそめられたが、私にとっては愛すべき、すばらしい環境だった。
 いつか友人が“ベトナムの文化は路地にあり”と一人で頷いていたが、とにかく路地の中ですべて事足りるのだ。麺屋、ごはん屋、市場、コーヒー屋、雑貨屋、美容院(これはちょっと勇気が必要だが)…。私は来越以来はじめて安住の場「自分の家」を見つけたような気分だった。
 気づくとベトナムに来て半年以上が過ぎている。なんとか生活のペースがつかめたころだが、そろそろ先のことを考えねばならない。もう一度言うが、そしてもう一度謝るが、私の本来の目的は“教育関連のNGO”だ。ごめんなさい。私はどちらかというと、何かを始めるとすぐにハマってしまうタイプだ。日本語教師を始めて自分なりに手探りで一生懸命やっていると、この仕事の面白さ・深さが見えてくる。授業を終えた後の深ぁい反省とちょっとの満足感。完璧だといえる授業なんてまったくないが、“次はこうしよう”とその分経験となり次回へ生きてくる。それになんといっても、まったく会話の成り立たなかった学生たちと日本語でコミュニケーションしている自分を発見したときの嬉しさは表現しきれない。このまま続けようか…。
 ぐらぐらと揺れていたある日、学校内の一枚のビラに目が止まった。“テト(旧正月)に恵まれない子どもたちに洋服を配布する活動”――。事務所は?誰がやっているのだろう?ビラを食い入るように読んだ。!!!……。こ、この住所はこの学校では?どういうこと?灯台下暗し。まさかこの建物の中にベトナムの子どもたちを支援する団体の事務所があったとは。しかも団体の代表者はうちの校長先生だったとは。早速、何百回も知らずに通り過ぎていた一室のみの事務所を訪ねた。
 事務所内は洋服配りの準備の真っ最中だった。忙しい中、唯一の日本人スタッフが活動内容を説明してくれる。日本から支援をもらってベトナムの子どもたちに奨学金を出している団体であること、年に1度テトの前に施設をまわって新しい服を配っていること…。
 話を聞いているうちに、自分の中で何かわくわくしているものがあることに気づき、なぜか喉が渇いてくる。一瞬にして先が見えてきたような気になった。
「とりあえずこの活動、お手伝いさせてもらえませんか?」
 授業の合間を縫って、行けるときはスタッフの人たちと一緒に施設を回って新しい洋服を配り歩いた。初めて訪ねるベトナム市内や郊外の孤児院やお寺、病院…。右も左も、もちろんベトナム語もわからず、ただついて回っただけだが、自分の中の“わくわく”が確実にさらに大きくなっているのを感じる。 当時の報告書には、孤児院で子どもたちに洋服を手渡している偽善者っぽい笑顔の私が写っている。しかし、ありきたりだが、子どもたちの笑顔というものはこっちまで幸せにしてくれる。洋服をあげたはずの私たちが何かを受け取っている。私は“みんなが楽しいテトを迎えられますように”と心の底から願った。そして腹の底では、「う〜ん、どうやったらこの団体に潜り込めるだろう?」と、対策を練り始めていた。(わきひら ひろみ・前駐ホーチミン市スタッフ)


■□◆◇
ベトナム点描 −歌謡ショー(1)

中 原 和 夫

サイゴンの劇場で、土日曜にしばしば歌謡ショーが開かれると旅行ガイドブックで読んでいたので、以前から一度は行ってみたいと思っていた。そこで、まずは偵察に行ってみることにした。
 サイゴンで「ベンタィン劇場」という名前を聞くとすぐに「ベンタィン市場」を思い浮かべる。劇場は市場の近くなのかと思っていたら全然違っていた。統一会堂(旧大統領官邸)正門と動物園や歴史博物館を結ぶレズアン大通りから、米国総領事館(旧米国大使館)横を曲がってすぐの所にあった。
 劇場の道路に面した壁に、これからの歌謡ショーの予定を書いた幕が下げられている。ベトナム語で書いてあるが、なんとなく日程や出演者名はわかる。念のため辞書を取り出して確かめ、メモを取る。今週のショーは、私のメコンデルタ旅行中なので、行けない。その次のショーへ行くことにする。劇場の敷地の入り口に小さい建物がある。そこがチケット売り場のようだ。
 メコンデルタからサイゴンに帰ってきてから、チケットを買いに行く。ガイドブックによれば、開演の2〜3時間前にチケットを買えばよいようなことが書いてあったが、土日開演の予定の所、念のため金曜日に劇場前のチケット売り場へ行ってみた。
 窓口の中には若い女性、外に中年のおばさん。ここから交渉が始まる。座席表があって、ここの窓口で売っている座席にはマーカーで色が付けてある。それは劇場内の中程の数列だけで、10万ドン(約1000円)ですとのこと。舞台近くの席は、ここでは売っていない。それは、「ブラックマーケット」でのみ手に入るのだとおばさんは言う。そう言いながらバッグから1枚出して、これは15万ドンだけど、いい席だよ、舞台の直ぐそばでよく見えるよ、10万ドンの席では舞台から遠くて遠くてよく見えないよ、などと言う。
 おばさんは、15万ドンのチケットを売りたいらしく、だいぶ粘られたが、10万ドンの席に決める。このとき既にほとんどの席に×印が付いていて、日曜のチケットがわずかに残っているだけだった。
 日曜日は、夜の8時からショーが始まる。私は、20分前に劇場に到着した。ホール入り口で、係の若い女性が3つ折りになったプログラム兼用のチケットを少し破って返してくれる。すっかりちぎってはしまわないが、せっかくのプログラムが台なしである。学生アルバイトといった感じの案内嬢が座席まで誘導してくれる。
 やがて開演時刻。しかし客の数がいやに少ない。10分過ぎても座席は半分ほどしか埋まっていない。20分過ぎに7割。25分、8割ほど埋まったところで、ベルが短く鳴った。8時30分、やっと幕が開く。
 その後も、遅れてきた客が堂々と舞台近くの席に向かう。周りの観客は、ペットボトル入りの水や、何やら食べ物まで持ってきている。開演中も、近くの仲間の席まで立っていって、何やら話し込んでいる人のなんと多いことか。
 これはなんとも驚きであった。私は、このときまで歌謡ショーなるものには一度も行ったことがない。日本ではどんな様子なのかも知らない。しかし、ここベンタイン劇場での観客の行動と同様のことが日本でも見られるとは思えない。ともあれショーは、なかなか楽しい内容のものであった。(なかはら かずお・運営委員)


事務局より

現在の会員の人数、里子の人数、みなさまからよせられた基金の使い方について報告します。
 2001年7月25日現在の会員総数は合計で448名(里親会員237名、一般会員114名、賛助会員40名、緊急支援会員57名)です。これに対して里子総数は468名(小学生58名、中学生195名、高校生174名、大学生41名)です。里子への奨学金の支給額は年間、小学生48ドル、中学生72ドル、高校生・大学生96ドルです。ホーチミンの青葉奨学会の管理費が2000〜2001年度実績で8%かかります。
 里親会員の方から送られた2万円のうち、高校生・大学生の奨学金96ドルと管理費を合わせて約105ドル、1ドルを120円として計算すると、1万2600円が1人の生徒にかかります。そして2万円のうち残りの金額と一般会員・賛助会員の方の基金で、特定の里親のいない里子231名の支援、それと学校建設や修理などの施設の整備を行っています。
 2000年度はビンフック省で新規に中学校を建設し、またベンチェー省の小学校の修理を行いました。
 里親会員の方でも、事情があって途中で退会する方もおりますが、奨学金事業として、里親の方が退会してからといって奨学金の支給をうち切ることもできません。また、為替リスクもあります。これらを勘案しまして、安定的に当基金を運営できるよう、みなさまからお預かりした基金を活用しています。


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