「ベトナム子ども基金通信No.17」より


里子への手紙

清 水 逸 子

Tran Huy Truong(チャン・フイ・チュオン)君ヘ

長い間、手紙を書かなくてごめんなさい。前回お知らせしたように、私の夫が亡くなって収入がないので、あなたへの支援ができなくなってしまいました。今回の送金でおわりにします。本当にごめんなさい。私の子どもたちも、奨学金を受け、アルバイトをし、学費を免除していただいて、学校へ行っています。あなたもこれからずっと頑張ってください。
 残念ながら、私があなたに手紙を書くのはこれが最後になってしまいます。
 私は、外国の子どもたちに里親として、お金を送り始めて、13年になります。なぜ私がお金を送ったかというと、私は、世界中の子どもたちが同じように、幸せになって欲しいと思ったからです。世界中の子どもたち皆が、幸せになるのには長い年月がかかるでしょう。そのためには、地球上から争いがなくなり、世界中が平和にならなくてはなりません。民族や宗教や思想の違いをのりこえて、お互いに理解しあい、認めあい、許しあって、仲良くなることが必要です。大きな、大きな、宇宙の中では、ゴミよりも小さいこの地球上で生きている人類は、皆同じ地球人なのです。私は世界中の子どもたちに、このことを知って欲しいのです。私と関わりあった子どもたちが大人になった時、またその子どもたちに教えてあげて欲しいのです。そしてまた、その子どもたちが大人になった時に次の世代に教えてゆく。そのようにして世界中が平和になって、地球上の子どもたちが皆同じように幸せになったら良いと思うのです。それが私の夢なのです。
 そこであなたにお願いがあります。どうか私の夢がかなうように手伝って欲しいのです。できれば、あなたが大人になった時に、あなたの周りの人たちに私の話を伝えてもらえるとよいのですが。そして、ベトナムの子どもたちが、皆豊かな暮らしができるように、ゆくゆくは世界中が平和になるように努力してもらえたらと思います。あなた一人の力で実現はできないでしょうが、ほんの少しでも平和のために何かをしようと思える人になって欲しいのです。どうか、自分の富や地位のみしか考えない人ではなく、皆の幸せを願える人になってください。あなたはとても勉強を頑張っているそうなので、私は遠い国からあなたのことをずっと心の中で応援しています。
 あなたとあなたの御家族の健康と、幸せをお祈りしております。


Gap Lai Nhe また会いましょう

高 橋 佳 代 子

夜の街サイゴン

新しい家に引っ越してはや5か月が過ぎようとしています。
 最初は中心区から離れてしまった事や、友人の家からも離れてしまい、寂しく感じたこともありましたが、「住めば都」ということわざのとおり、だんだんこの地区の市場や子どもたちが好きになってきました。幸い職場まではバイクで10分という近距離になり、朝は随分楽になりました。
 しかし、私の友人はほとんど1区、3区という中心地に住んでおり、ついつい話がはずむと夜の11時、12時を回る事も少なくありません。
 皆さんもご存知のとおり、私の愛車は1979年製のホンダ「チャーリー」です。このバイクはみんなに「自転車よりも速いバイク」とからかわれるほど遅いのですが、それなりに愛着もわき、今では私の大切な足となっています。(写真:職場前にて愛車チャーリーと)
 そんなチャーリーで夜の街を駆け巡る楽しみを覚えたのは私がこの家に引っ越してからでした。
 ベトナムはバイクの洪水といわれるほどバイクの数が多いのです。特にラッシュ時になるとすざましい渋滞が起こり、交通警察が毎朝手旗信号で整備するほどです。そして人々はわれ先にと走るので、またまた大混乱し、特に車に乗っている人たちはもろにこの渋滞のとばっちりを食ってしまうのです。そんな中でも特に渋滞の激しい通りが私の帰り道になる「レーヴァンシー」通りなのです。
 この通りはそんなに広くないのですがなにしろ交通量が多くてひどい時にはいつも1分で行けるところが10分かかってしまうのです。
 そんな悪しき通りなのですが、夜になるとがらりと光景が変わります。特に11時を過ぎるとバイクの数が減り、天秤棒をかついだおばさんや、フォーやチェーを売る屋台のおばさんたちが家路を急いでいます。また、シクロ(日本の人力車のような乗り物で庶民の足)の運転手たちの集団がガソリンスタンドに集まって眠りについています(彼らには家がないのだろうかといつも疑問に思っているのですが…)。
 そして夜がふけてきたころ、カラオケやカフェは明るさを増してきます(カラオケができない私はよく事情がわからないのですが)。また、何故だかこんな時間に体操をする人も少なくありません。大きな麻袋を持ってごみ集めをする子どもたちもよく見かけます。
 中心区から私の家まで昼間は30分かかりますが、夜は15分、ひたすらこのレーヴァンシー通りを突き進みます。夜の街は涼しくて心地よい風が吹きますが少しだけ切ない時間です。(注意:夜の徒歩は危険ですからやめましょう)2001年2月28日記

●訂正:通信16号8ページ左段29行目「経済特別区」を「別世界」と訂正します。(編集部)
※ホームページでは訂正済み


人情の街サイゴン その4

脇 平 裕 美

ベトナムの朝は早い。365日、例外なし。
 日中は脳みそが溶けてしまいそうな南国、平日(月〜土曜日)早起きして勉学や仕事に勤しむのは百歩譲ろう。なぜだか知らないが日曜まで同じように時は流れる。いや、ヘタしたら平日より早いような気さえする。早朝6時、寮に住む留学準備生たちはわざわざラジカセを外に向け、ベトナム演歌調ロックに合わせて体操を始める。それに負けじと再度眠りにつこうとすると、学生からの電話。こういう時はわざと迷惑そうに、眠そうに電話口に出る。
「もしもし」
「先生、おはようございます。お元気ですか?」
「はい、元気ですが眠いです」
「え?先生もう6時半です。遅いですねー」
「……。」
「先生、今日は暇ですか?今から遊びに行ってもいいですか?」
「……す、すみません。今日は忙しいですから、また今度、ね」
 寝てたくせに。もちろん忙しくないくせに。そして私は再度眠りにつくのだ。
 ま、これでもまだマシになった方である。なぜなら彼らの基本は“突撃訪問”だからだ。
 電話の普及率の問題なのだろう、彼らは“とりあえず行ってみる→とりあえず待ってみる→ひたすら待ってみる→相手の不在を責める”のだ。しかし考えようによっては、この行動はなかなか風情のあるものではないか。事実私も、携帯電話などない現地で何度も何度もこのような状況に置かれ最終的に“待ち人来たらん”時には相手に抱き着かんばかりの喜びを得られるコトを知ってしまっている。
 また、これは「常に誰かが家にいる」のを前提に可能となる。たとえ本人がいなくても、本人そっくりの兄弟か両親が出迎えてくれ、
「もうすぐ帰ってくるから、お茶でも飲んで待っとき」と、よもやま話(たいていは珍しいニホンジンに質問攻め)をするうちに、気付いたら家族全員、いやいやヘタしたらご近所さんまでお知り合いになっているコトになる。しかも肝心の本人には会えない、なんていうオチまでついてくる。
 話を元に戻そう。
 6か月コースで始まった彼らを教え出してから5か月がたったころにホーチミン市内の新学期が始まることになり、私は市内のクラスを担当することになった。6か月ずっと同じ先生よりも、他の先生の日本語も聞いておいた方が、という配慮もあったのだろう。最後まで私が教えたかったが仕方がない。このころになるとみんなとのコミュニケーションにも問題がなくなり、あとは会社に入って首尾よく仕事をこなしてくれるのを祈るばかり。
 そんなある日、私は休み時間にバドミントンやサッカーをしている彼らに気付いた。誰かがわざわざ持って来たのかな?
「これ、どうしたのですか? 誰のですか?」
「私たちのです」
「???」
「上司の○○さんが買ってくれました」
と、にこにこ顔。
 がーん。上司に休憩時間の遊び道具をねだる部下……。
 どういう流れでこんな成功をおさめたのか見てみたいもんだと感心していた数日後、その上司の方がみんなのお給料を手渡しに教室へいらっしゃった。緊張ぎみの彼らに1人ずつお給料を渡し、ランチ前ということもあって簡単にお話をして帰ろうとした時だ。
「○○さん、一緒に昼ご飯を食べませんか?」
と、一人の学生がその方を誘った。
「いやぁ、ありがとう。でも今日はちょっと」
「そうですか。残念ですね」
と、本当に残念そうな顔を見せたのはつかの間だった。その直後、なぜかみんなにやにやしている。するとその方は、あぁそうか、という表情で、
「はい、じゃあこれでみんなで昼ご飯を食べて下さい」
と、お札を数枚クラス長に渡した。もちろん自らのポケットから。
「わぁ、ありがとうございます!」
拍手までおこる。なぁるほど。こういう手口かぁ。思わず納得してしまうが、自分が彼らにベトナム料理をごちそうしてもらいたい時の作戦と何ら違いはない、と気付きひとり笑いをする。この調子で彼らはお給料値上げもねだるのだろうか、彼らの笑顔に日本人が負けるのだろうか、それとも彼らから笑顔が消えてしまうのだろうか……。
 こうして最後の授業もお互い泣きたいのをこらえて笑顔で無事終えた。再会の日に全員が楽しく働いていることを願いながら。

滞在6か月目からホーチミン市内のクラスのみの担当となり、通勤時間も長くて15分と短縮された。移動は愛車中国製ママチャリ。平たんな道なので、暑ささえなければ鼻歌でも歌えるぐらい楽勝だ。しかし油断禁物。この乗り物がくせ者なのだ。
 まずブレーキがきかない。これはかなりスリリングである。でもこういう時は、靴の裏を道路に全面つけてザザァーーっと摩擦させて止まる「必殺・足ブレーキ」を使えば良い。ま、靴底のすり減り具合を長期的に計算すると、さっさと修理した方が無難だが。
そして、ベトナムの自転車はよくパンクする。たかが2、3回のパンクではそう簡単にチューブを取り替えないからだ。道ばたには、チューブの穴をふさぐ職人のおいちゃんたちがスタンバっているので修理はお手軽にできる。しかし自転車というものはパンクしていても走れるもので、私自身気付かずに走っていることがよくある。でもここは人情の街サイゴン。振り向きざまに、「☆@&%$!」と、タイヤを指して教えてくれる。しだいに私は、この人情に触れるまで修理に行かないようになっていた。
 ある日、私は帰宅までの短い距離の間に2度も、後輪タイヤを指差してパンクのご指摘を受けた。こういうコトがある度にあったかい気持ちになり、単純にもイヤなことはすべて忘れられる。そして家に到着。すると通りがかった学生から一言、
「あぁ〜〜〜先生! スカート、破れてますよぉーー!」
 がーん。なんと、ロングスカートの裾が後輪に巻き込まれていたのだ。パンクではなかったのだ。がーん。私は決意した。「やっぱりベトナム語、勉強しよう」と。

一口に「ベトナム語勉強!」と言ってもこれがなかなか実現できない。不規則な時間割に合うような時間帯を自分で見つけなければならない上に、1学期毎(3か月)にこれまた時間割が変わってしまうのだ。それに困ったときは学生かベトナム人の先生について来てもらえばどんなコトでも解決できてしまう。これだけ言い訳がそろえばサボるには十分。
 しかし、だ。自分の意思を伝えるのに人様のお力を借りるのはどうも悔しい。もちろん「喜」も「怒」も「哀」も「楽」も今のままで十分に表現できる。いや、むしろ「怒」はベトナム語を知らない方が表現しやすいかもしれない。でもこれでいいのか? 自分にはそれだけで表現できてしまう感情しかないのか? いや、「驚」も「疑」も「愛!」も伝えたい。そしてナマの声はやっぱりナマで聞きたいし、伝えたい。ようやく私は時間を見つけ、週2回勉強を開始することになった。 ただし、「予習・復習は一切しません。授業と準備で忙しいので」と、はじめに先生に断ってから。


■□◆◇
ベトナム点描 −トイレを拝借−

中 原 和 夫

メコンデルタの中心都市カントー市からホーチーミン市へ戻るとき、旅行社にタクシーを頼んだ。料金は45万ドン。この時の為替相場で 約3500 円であった。ホーチーミンで何か所かの旅行社にカントーまでの車代を聞いたときは 60〜80ドルとのことだったので、今回は、非常に安いという感じがした。
 出発当日の朝、約束どおり8時ちょうどに車は出発した。大変なボロ車だった。運転手は、ベトナム語しか話さないおじさんで、話がさっぱり通じない。
 車は80〜95 km/h でとばしにとばす。やがてロンアン省に入ったころ、このあたりでトイレを借りた方が良さそうだと思い、運転手のおじさんにベトナム語で話しかける。
 ワタシ、コーヒーヲノミタイ。ワタシ「ニャーベーシン」ニイキタイ。
 コーヒーの件は、すぐにわかったようだが、トイレのほうは、なかなかわかってもらえない。悪戦苦闘したあげくに、やっとわかってもらえて、国道沿いの店に車を止めた。
 運転手のおじさんの説明では、「ニャーヴェースン」と発音するのであるとのことであった。
 後で辞書を見たところ、「ニャーヴェーシン(Nha Ve Sinh=家衛生)」は独立便所のことで、家の中の便所は「フォンヴェーシン(Phong Ve Sinh=房衛生)」というのであるとあった。
 コーヒー屋さん(何か他の物も売る店のようであったが)の裏にまわると、店と同じ建物の中にトイレ(とおぼしきもの)があった。小部屋の壁に沿って溝があり、むき出しの水道管が入り口側の隙間からのびていて、工場で使うような赤いハンドルの付いた弁につながっている。溝に向かって用を足した後に、その弁を開いて水を流すようになっている。
 外へ出て気が付いたのだが、その水道管は、トイレの扉のすぐそばの食器洗い場に続いている。地面には、皿などをつけたままの洗い桶がおいてあり、その近くに水道の蛇口が取り付けてあった。運転手のおじさんは、そこで手を洗い顔を洗っていた。私もそれにならった。
 排水用の溝は、壁の下を通って隣のトイレの溝に直接つながっている。もちろん下水はトイレ側に流れ込む。
 店の前に戻ると、コーヒーの用意がしてあった。小さなコーヒーカップの上に小さなステンレス製のフィルターが載っていて、しばらく待つ。湯がフィルターから出きったところで、氷入りのガラスコップにコーヒーを注ぐ。コンデンスミルクをどの時点で入れたのかは忘れた。この店での休憩時間は26分、料金は2人分で5000ドン(約38円)であった。
 かくして無事にホーチーミン市の宿に到着することが出来た。カントーの宿を出発してから4時間半の旅であった。


事務局より

ベトナム子ども基金通信号外(2000年11月16日発行)及び通信16号(2001年3月15日発行)でみなさまにお願いしました「避難所兼学校」建設への募金は、5月末現在で約220万円になりました。総工費は約300万円ですので、引き続きみなさまの協力をお願いします。
 実際の建設については、通信16号でお知らせしましたように、場所はロンアン省のトゥトゥア県に決定し、土盛りが終了しました。しかし土台を安定させるため、建設開始まで約6ヶ月の養生が必要とのことですので、建設開始は10月か11月くらいになる予定です。
この避難所兼学校建設については、「青葉奨学会」を支える「青葉奨学会沖縄委員会」、「北陸ベトナム友好協会」それに当「ベトナム供基金」の3グループが協力しております。

ホーチミンに駐在の高橋佳代子さんが、5月に休暇で一時帰国しました。休暇といいながら、ベトナム子ども基金の運営委員会に出席いただいたり、ベトナムでのボランティア活動などについて質問をよせられた大学生たちにも積極的に会ってくれました。

本号に子ども基金の振込用紙を同封させていただきます。今年まだお送りいただいていない方、この用紙をご利用下さい。既にお送りいただいている方、申し訳ありません。緊急支援については用紙がございません。郵便局備え付けの用紙をご利用ください。


もどる

Copyright Vietnam Kodomo Kikin 2001, All Rights Reserved.