「ベトナム子ども基金通信No.16」より


メコンデルタ洪水災害「避難所兼学校」の建設に向けて

2000年11月の本通信号外で、メコンデルタ洪水災害に対する緊急支援として「避難所兼学校」の建設のため、みなさまのご協力をお願いいたしました。インターネットのホームページ(HP)でも広く協力を求めております。1月末現在、199万円の募金がありました。
 このたび、ホーチミン市駐在スタッフの高橋佳代子さんから2編のレポート(「学校編」「制服編」)が電子メールにて届きましたので、以下に掲載します。支援の経過については、引き続き本通信およびHPで随時報告していきます。

メコンデルタ緊急支援レポート ロンアン省 学校編

行き先:同省トゥトゥア県
日 時:2000年12月28日
行 程:ホーチミン市→トゥトゥア県→ロンタイン村など

【目的】
昨年メコンデルタ地域を襲った洪水に対して中期的な支援として「洪水に強い学校と避難場所の設置を」という呼びかけが日本の3つの協力団体(ベトナム子ども基金・北陸ベトナム友好協会・青葉奨学会沖縄委員会)で始まった。現在各団体で支援を呼びかけてもらっている。ベトナムサイドでは当初、ドンタップ省へ支援をと考えていたが、現在ロンアン省に絞って考えている。
 この日はロンアン省の人々の生活、学校、洪水の被害状況を聞くために訪問した。当日は、元ホーチミン市の書記長であるチー氏とホゥエ校長と高橋の3名で行った。

【ロンアン省について】
面積:4338平方キロメートル
人口:130万6202人
省都:タンアン
民族:キン族、クメール族
気候:雨季と乾季に別れている。1年の平均気温は27.4度、雨季は通常5月から10月、1年間の平均降水量は1620ミリメートル。
ホーチミン市から47km離れたロンアン省はメコンデルタの玄関である。北部をタイニン省とカンボジアに、東部をホーチミン市に、南部をティエンザン省に、西部をドンタップ省に囲まれた省である。ロンアン省は農業を主にし、肥沃な地でもあり、2つの大きな川である「ヴァム・コゥ・ドン川」と「ヴァム・コゥ・タイ川」が流れている。北部は丘陵地があり、またデルタ地帯もある。西部はドンタップムオイ地域に属する。ロンアン省は川が網の目になっている地域で、水路が密接に連結している。そしてそれらの水路が多くの地域に分断している。実際はロンアン省はメコン川ではないが、ヴァム・コゥデルタはドンナイ川とメコン川の中間に属する。(「私たちの国ベトナム」より)

【見学した学校】
1.ロンタイン小学校
 新学校予定地は、縦150m×横100mの敷地に18教室の予定。道を隔ててまわりは一面の水田。道は1m半ぐらい土盛りをして高台になっている。洪水の時には、この道は浸水しなかったとのこと。この予定地には小学校・中学校を併設する。
2.ロントゥアン小学校
 3個所に別れて全部で14教室が併設。生徒数は620人。2部制で午前・午後授業を行っている。現在19クラス。私たちが最初に見学したのは1998年に建てられた比較的新しい校舎。生徒は主な交通手段としてボートを使う。
3.ミーラックA小学校
 2個所に別れて併設。全部で12教室で生徒数は423人、14クラス。校舎は1977年に建てられたが床・屋根は修理をしている。(屋根はトタン板)
4.ミータィン小学校
 1個所に建設。8教室で16クラス。生徒数550人。運動場は土盛りをしたばかり、校舎の骨組みはコンクリート。

【話し合いとして】
トゥトゥア人民委員会からは、新しい敷地に18教室の要請があったが、ホゥエ先生聞き入れず、(18教室は予算的にも無理だし、点在している学校を1個所にしてもあまり意味がない)、1998年度に建てられた敷地内に中学校を併設するならばという見解で話を進めていく。現在このロントゥアン村には中学校が無く、もし中学校へ通うならば10km離れたミータイン中学校まで行かなければならない。だから中学校を作ることには意味がある。もし作るとしたら、現在古い会議場を取り壊してその地に作る。最初は2階建てをという申請があったが、あまりに周囲の家にそぐわないため、平屋建てにすることを提案。ただし2m以上土盛りをすることが条件になる。教室数は6教室。設計についてはクチのニュアンドッゥク中学校をモデルにしたいという提案。(屋根があり、ガラス窓、タイルの床など)また井戸、トイレも併設したい。(この地域の人は普段雨水を飲料水として利用)
 ロンアン省はホーチミン市からかなり近い省なので、つい便利な土地なのかという錯覚をおこしてしまう。しかし同市から1時間ほどで、交通手段はバイクや車からボートに変わる。バイクでも行けないことはないが、遠回りをしなければならないので、不便なのである。家並みはやはり前回のモックホアと同じようにやしの葉で作られている。この地域の人たちは農業に従事しているが、やはり洪水でかなりの被害を受けたらしい。ここでは養殖はあまりやっていないとのことだった。

【お願い】
前回、学校を建てるのは170万円ぐらいといいましたが、今回大幅に変わって300万円ぐらいに増えました。参考までに今まで学校支援をした費用をお知らせします。

クチのニュアンドッゥク中学校(1999年)
 費用:約650万円=8教室、図書室1、実 験室2、職員室1、警備員室1、自転車置 き場1、お手洗い2、電気・水道完備
ベンチェのルオンホア小学校(2000年)
 費用:約75万円=ヤシの葉で葺かれた屋根 を修復、天井をつける。ドアと黒板の付け 替え、壁と窓のペンキ塗り替え、電気と扇 風機の布設工事、校庭を高くする。
ビンフックのダックニョウ中学校(施工中)
 費用:約140万円=4教室、天井、床のタ イル、ガラス窓

メコンデルタ緊急支援レポート ロンアン省 制服編

行き先:同省モックホア県モックホア小学校
日 時:2000年12月23日
行 程:ホーチミン市→ベンルック→タンアン→タンタイン→モックホア

【目的・内容】
メコンデルタの洪水の被害の深刻な地域に制服を持っていく。
 10月の奨学金支給日にホーチミン市に住んでいる学生から少しずつ義捐金を集める。それに子ども基金の里親・小林さんが来越された時に義捐金として2万円を、私個人の知り合いが洪水レポートを読んでそれに応じてくれ、その人たちからの義捐金80ドル(約9400円)を支援してもらい300着の制服に替えて持っていった。

【感想】
今回は特別何かを視察するわけではなく、洪水の後がどのようになっているのか、復興はどのぐらいしたのかなどを自分の眼で確かめたかった。特にモックホアはカンボジアとの国境にある町なので被害が一番大きいとテレビや新聞で報道されていたこともある。
 現在、水は引いているが、道路の修復が進んでいない。修復というよりも元から舗装されているものではないので、水が引いたあと、そのまま何もしていないという状態に見えた。
 水田に関しては、休閑田かと思っていたら地元の人が、増水のために稲穂がまったく見えない、魚が全部逃げていったとの話をしてくれた。(この村の人たちは主に農業に従事しているので、ダメージが大きいはずである)
 タンタインからモックホアまでは20kmである。しかしこの間の道は全く舗装されていない。また家はほとんどがやしの葉で葺かれている。たまにトタン板の屋根も見かけるが少ない。人民委員会、郵便局など国の機関のみがきれいなコンクリートの建物だった。またやしの葉で葺かれた家も壁の部分が新しく葺きかえられているものが多かった。だいたい葺きかえるのは30万ドンから80万ドン(約2300円から6150円)らしい。(この金額はホーチミン市や日本に住んでいる人からみれば高くないと感じるであろうが、この地域の人にとっては月収30万ドンぐらいが普通なので高い金額である)
 現在モックホアには17の学校がある。今回300名の学生の選定は人民委員会にお願いして2校から特に経済的に厳しい状況の子どもたちを選んでもらった。私たちの訪れたモックホア小学校も2か月間は水につかりっぱなしだったらしい(今は引いている)。一番水位が上がった時で、3m27cmという数字だったらしい。でも学校へ着くと、子どもたちがすてきな笑顔で迎えてくれた。そして先生の指導のせいもあったのか随分行儀が良かった。それからホーチミンの子どもと比べてかなり小さくてやせている。最後に男の子用の制服が足りなくなってかわいそうだった(それでもボランティアの先生はちゃきちゃき配っていたが)。また別の小学校ではいまだに校門がぬかるんでいて通れないため、裏にある川を小船を使って登校している姿も見られた。

【緊急支援の意味】
単発で義捐金を受け取った場合は、このようにモノに替えて支援する事も1つの有効な手段だと思った。モノに替えればお金でなくなるので、途中どこかでなくなった(賄賂)という疑惑も持たなくて良い。ただし規模があまりにも大きくなるとフットワークが重くなるという危険性もある。


里子に逢いにベトナムへ〜4泊5日の旅から〜 小 林 初 江

11月30日から12月4日まで、ホテル3泊、機内1泊で、ホーチミン市へ初めて訪問いたしました。
 12月1日は市内観光で、3日は南部のミトーへメコン川クルーズとなりました。
 いよいよ里子に面会できる12月2日となりました。14時からの約束でしたので午前中は、タクシーでホーチミン記念館やサイゴン駅を見物して、昼食後ホテルで待ちました。
 14時にホテルの1階ロビーへ行きますと、青葉奨学会事務局の高橋佳代子さんが、待っていてくれました。
 ほどなく、やってきました本人(ハンさん、女子高3年生)とお父さん。
 そして、ロビーにあるラウンジにて話し合うこと1時間半。「お互いに逢うことが出来てうれしいこと」「大学進学は、学校の先生になりたいため師範大学を、志望していること」などを高橋さんの通訳で会話出来ました。
 夕食を一緒にと思ったのですが、彼女は勉強の補習を受けなければならないとのことでしたから、記念写真を撮り、大学受験に向けてがんばることや再会まで健康で、元気に過ごすことをお願いし、お別れしました。

 その後、高橋さんに、青葉奨学会の事務局を見学させていただいてから、夕食や土産物購入へと案内をしていただきました。
 このとき、「援助する」ということについて高橋さんと私は、話し合いました。
 私の住む栃木県日光市にある、有名ないろは坂の野生の猿が、例えは悪いのですが、車道に出てきてそれに観光客がお菓子などを与えてしまうために、山に戻って木の実などのエサを採れなくなり、野性が失われ、自立できなくなり可哀相な結果になってしまう、という実例を話しました。
 里子へ現金や品物だけを差し上げるという姿勢に十分配慮する必要があるし、ホゥエ先生はその点、厳しすぎるくらいの方針で運営をなさっている、ということをお聞きしてお互い、納得できました。
 支援や援助は、自立への手助けを柱にしていることが、よく理解する事が出来ました。(投稿)


里子からの手紙

里親様へ

里親様からのお手紙を頂いて、私はとてもびっくりし、また大変嬉しかったです。
 里親様、私に共感してくださり、困難を分かち合ってくださり、私を応援してくださってどうもありがとうございます。父はもういませんが、夜空のたくさんの星を見上げると、いつも私は、どこかで父が私の歩みや私のすることをずっと見守っていてくれるような気がします。
 世の中は人が一人増えようと減ろうと変わりなく続いていきます。私は、私の父が残してくれた唯一のものかもしれません。それゆえ、私は私の父の期待と願望を成し遂げる努力をしなくてはなりません。それが、父が私を育ててくれたご恩に少しでも応える唯一の方法だからです。
 里親様! 来年になると私はもう18歳になります。本当に早いものですね。今年私は12年生になりました。
 もうすぐ白いアオザイの学生生活ともお別れしなくてはなりません。ということは、私はもうすぐ青葉奨学会の家族とお別れすることを意味します。
 過ぎ去った時間が、慣れ親しみ、心から愛するものになっていました。奨学会の先生方のことを私は決して忘れることが出来ません。
 奨学会は私の勉強面での大変大きな物質的な援助の源であったのみならず、数え切れないほど多くの方々のご関心と思いやりの気持ちが含まれたものでもありました。
 私の父も、私が奨学金をもらいに行くために、毎回忙しい中、8、9キロの道のりを自転車をこいで送り迎えしてくれました。
 青葉奨学会は渡し舟のように、私に川を渡らせてくれました。そしてこれからも私の次の子どもたちに川を渡らせてくれるでしょう。里親様がしてくださったこと、私個人、ひいては私の祖国にご援助くださったことについて、あらためてお礼を申しあげたいと思います。
 私は大学の入学試験に合格するように、この新しい未知の状況で良い成績をとるように一生懸命頑張ることをお約束します。いつでもどこでも私は里親様のことを考えています。そして里親様のご健康とご多幸をお祈り申しあげます。
 もしできましたら、私は里親様にこれから先の勉強のことについてお知らせする手紙を書きたいと思います。
 それではここで筆を置かせていただきます。
 最後に、里親様とご親族の皆様がご健康でありますようにお祈り申しあげます。里親様とご家族様が幸福で楽しく心温まるクリスマスをお過ごしになりますよう謹んでお祈り申しあげます。

ファン・グエン・アィン・ダオ

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

2000年11月20日
青葉奨学会様

私はレ・トゥイ・アィン・トゥです。昨年のわたしの成績は可でした。ですから私は履歴票をつくり、それに校長先生と担任の先生のサインをもらわなければなりませんでした。 しかし、青葉奨学会のスタッフのみなさま、そして里親の小堀敬子様、この成績で奨学金を支給してくださいとは、恥ずかしくてとても言えませんでした。
 それと、もうひとつ青葉奨学会のスタッフのみなさまと、里親の小堀敬子様に、お知らせしたいことがあります。さる10月19日、私の母は友人とドンタップ省の洪水被害地に救援物資を渡しに行くときに、不幸にも交通事故に遭って、2000年10月19日の朝3時50分に亡くなりました。
 私の両親は、私が3歳、妹が1歳のときに離婚しました。いま私と妹は叔母と一緒に住んでいます。 もう遅いかもしれませんが、スタッフのみなさま、以上のようなわけで、私は里親の小堀さんを「おかあさん」と呼びたいのです。
 青葉奨学会のスタッフのみなさまの健康と幸運、そして日々のお仕事のさらなる発展をお祈りして。

レ・トゥイ・アィン・トゥ


Gap Lai Nhe また会いましょう 高 橋 佳 代 子

皆さんこんにちは。10月も半ばに入り、日本では秋空が美しい季節でしょうか。最近皆さんからのお便りの中にコスモスの話題が多いです。
 やはり日本は四季が明確にある国だなあと感じました。季節ごとの花が咲き、食べ物もあり、肌で感じ、見て感じる四季。いろいろな四季の感じ方ができるのも日本ならではのことですね。
 ではサイゴンはというと前にも書いたように雨季と乾季があります。今は乾季に移動する最中で、この2、3週間は雨の多い日が続いています。この時期がサイゴンは一番寒い季節だそうです。確かに日本と比べると「暑い」に変わりはないのですが、少しでも気温が下がると(下がるといっても20度〜23度)セーターやジャケットを羽織ります。やはり南国に住む人は暑さに強くても寒さには弱いのでしょうか。

謝らないベトナム人

最近よく腹が立つ事、それはよくバイクに乗っていて足を踏まれる事です。私のバイクは1979年製のホンダチャーリーです。はっきりいって、ベトナム人から見てもおんぼろで、ホンダドリームやマジェスティといったバイクに比べると価値が低いのも確かです。ですから、例え足を踏まれても「ごめんね」と謝るどころか「あら踏んだの」的な感覚が多く、スーっと何事もなかったように走り去って行くのです。追いかけようにもスターターが遅い私のチャーリーはエンストしてまたエンジンをかけ直すという動作から始めなければならず、その時にはとうのバイクは姿形もなく消え去って私一人が取り残され、最近ではよく「ばかやろう」と日本語でぶつぶつ文句をいう習慣がついてしまいました。
 最近、知り合いの日本人にこのことを話したところ、確かにベトナム人はバイクで足を踏んだときに謝らないのが普通だと言っていました。日本人なら必ず「すみません」は当たり前、それに深いおじきまで入るのに…。
 そんなことを考えていると、以前ベトナム語の先生が言った「日本人のおじぎの習慣はベトナム人にとってはよくない。あんなにおじぎするのはベトナム人にしてみれば腹の中で何を考えているかわからない人間の証拠だ」という言葉を思い出しました。
 また他の友人から「日本人はどうしていつも『ありがとう』というの」と尋ねられた事もありました。確かに日本人がスーパーで買い物をした後お会計の方に「ありがとう」、バスの運賃を払う時に「ありがとう」という言葉を何気なく使っています。何気ない中に小さな思いやりがあることは素敵だなと感じます。
 国が違えば習慣も変わるのはもちろん当たり前のことなのですが、やはり自分の好きな習慣は守っていたいなと思いました。(しかしバイクで足を踏まれるのは実は私自身の運転のセンスの問題というのも関係しているらしいです。友人談)

雨が降ると…

サイゴンではそろそろ乾季が始まる季節だというのに、今年は本当に雨が多いです。8月末からメコンデルタ地方を襲った洪水(原因は上流のカンボジアの大洪水によるもの)がやっと終わったかと思えば、その次は南部も中部も台風の被害が出ている状況です。9月末にメコンデルタの洪水の緊急支援へ行って来たのですが、それから間もない10月の初め、サイゴンでもかなりの雨が降りました。
 その日の朝、私は現地NGOの見学へ行くために「Ly Chinh Thanh」と呼ばれる道を目指して出発しました。
 日本と同じようにベトナムも大通りから一歩入ると小道がたくさんあります。そのNGOの事務所は、その小さな小道をずっーと突き進んだところにありました。
 もともとが大変な方向音痴の私に、輪をかけてバケツをひっくりかえしたような雨も重なり、10メートル進むごとに人に尋ねながらの進行速度。小道に入ると更に道路の浸水は激しくなりました。40センチほどの浸水で、愛車チャーリーはタイヤがまるごと水に浸かっています。いつ壊れるかとびくびくしながら、それでも最後までチャーリーはがんばって動きました。
 およそ20分遅れで事務所につくと、なんとその日の活動は違う場所で行っているとの答えが返ってきました。
 事務所のおじさんに、この辺はいつも雨が降るとこんなに浸かるのかと尋ねたところ、「この辺は貧しい地域だからいつも雨が降るとこうなるんだよ」とおっしゃっていました。確かに、私が以前住んでいた1区(サイゴンの中心)はいくら雨が降っても道路に浸水することはありませんでした。サイゴンは別世界で、もはやベトナムではないと思っていましたが、こんな時にサイゴンの中の厳しい現実を見せ付けられた気がしました。
 私の新しい家はタンビン区という空港の近く、つまり中心から離れたところにあるのですが、やっぱり道路が水で浸かっている状況がよくあります。でも街行く人々はバイクで自転車で走り抜けています。すごい、強いなと感じながら、私は愛車チャーリーがいつ壊れるかとびくびくしながら走っています。

サイゴンの街角

ベトナムの街は美しいとしみじみ思います。こう書くと、ベトナムを訪れたことのある人には、臭くてバイクばっかりでどこがきれいなのかと反論をされそうです。でも表通りから一歩裏道に入ると、静かな住宅地も多くあります。静かというと語弊がありますが、全ての音が調和しているように感じるのです。
 物を売り歩く行商人の声、雨の音、バイクの音、それらすべてが折り重なって美しい街を創っているように聞こえます。そして、市場や木々がその音をやさしく吸い込んで、日々の厳しい現実をも見守ってくれているような気がします。私の部屋からは1つの通りが綺麗に見渡せます。この通りの先はおそらく市場なのでしょう。今回は皆様に私の部屋から見える風景を送ります。

本稿は2000年11月に寄稿されたものです。(編集部)


人情の街サイゴン その3 脇 平 裕 美

日を重ねるごとに上達してくる彼らの日本語を聞くのは本当に楽しい。しかし時が経つにつれて各学生の能力に差がついてくる事実も否めない。それなのに。合同で筆記試験をするとどうも差がつかないのだ。そして個別に会話試験をすると見事に差がつくのだ。
 なんともわかりやすい学生たち。もう時効だと信じて書くが、確かに私も何度となくカンニングはしたことがある。しかしカンニングというものは一方が自らの利益のためだけに犯す罪であって、双方が納得した上で一方の利益のためそして他方の損益を覚悟で成り立つものではない、というのが私の解釈であった。
 しかし彼らにとって「損益」というのはどうも、“自分の仲間が仲間でなくなるコト”のようなのだ。これがあのホーおじさんの教えである団結精神なのだろうか。日本のような弱肉強食の精神はないのだろうか。
 ベトナムで生活していて何度もこの不思議な精神に出会ったが、石川文洋を読んでも司馬遼太郎を読んでも残念ながら私には最後まで理解できなかった。「読む本を間違った」ということにしておこう。
 もちろん私も負けじと半数近くを0点にしてみたり、「日本人上司に報告しますよ」とおどしてみたり精神的制裁に出てみたが、そんなとき彼らはなんとも悲しそうな目で私を見るのだ。
「働きはじめて困るのはみなさんですよ。どうするんですか」
と、言ってはみるものの、私もこういう制裁がだんだんばからしくなり、
「ま、いっか。試験でこれだけ助け合うのだから、きっと仕事が始まってもみんなで助け合って働いてくれるだろう」
と妙に納得してしまったのだ。
 ん? こ、これが共産主義ってコトなのだろうか? 資本主義の国からやってきたおじさんたちの下で、この考えがまかり通るのだろうか、それともにこにこしている彼らが互いをライバル視する日が来るのだろうか。一瞬不安に、そして次に少し楽しみな気分になった。
 もう一度だけ、彼らの悲しそうな目を見たことがある。
 ある日、10分間の休憩の間に教室を出ていったきり40分も帰ってこなかった学生がいた。
“キれるばかりが能じゃない”と学習したオトナの私が落ち着いて質問してみると、
「私の母は風邪を引きます。私はとても心配です」
 準備していたのだろうか、優秀ではないがいつもまじめに勉強していた彼女は必死に私に伝えた。まさに私が渡越を決めた理由の一つ、「家族の絆の強さ」をまた見せつけられた。彼らの最優先は勉強でもない、遊びでもない、まず家族なのである。
「とてもとても残念ですが…」
 気はすすまなかったし、ましてや従ってもらおうと思ったわけではない。しかし私は日本で働く人たちの現状を簡単に説明した。どんなにつらくても親族のために休む人はとても少ないことを。
 ……。みんな黙って私の話を聞いていた。なぜかみんなまっすぐに私の目を見ている。そしてゆっくりと首を横に振った。彼らの表情の中に悲しみと日本人への哀れみを感じた。 その時、私は、誰にも譲れない確固としたものがある、と言い切れる彼らを羨ましいとさえ思ったのである。
 そうこうするうちにも、彼らの日本語はどんどん上達していった。ここで、私の気に入ったやりとりをいくつか紹介しよう。

1:学生「(私の若白髪を横目に見ながら)先生、最近考えることがたくさんありますか?」
 ……。遠回しにゆーなよ。余計に傷つくやん。
2:“〜てもいいですか”という文型を導入した直後の休み時間に、
  学生「先生、日本では、学生は先生を愛してもいいですか?」
 す、すばらしい。もうこの文型が使えてる!で、でも私の目を見つめてする質問か? こうなったら切り返すのが一番。
  私 「えぇ、いいですよ。ベトナムはどうですか?」
  学生「うーん。ベトナムでは学生は先生を愛してはいけません」
  私 「そうですか。残念ですねぇ」
 ん?? 何が残念なんだか……。
3:学生「先生、私の恋人になりませんか?」
  私 「残念ですが、私は今、恋人は欲しくありません」
  学生「そうですか。残念ですね。では先生、恋人と友だちの間はどうですか?」
 ……。キミ、それは一体何がしたいねん。
4:学生「先生、昨日、私は本屋で日本語の辞書を買いました」
  私 「そうですか、よかったですねぇ」
 サイゴンはともかく、郊外で勉強している彼らにとって教科書以外はなかなか手に入らなかったのである。
  学生「(私の手の甲のイボを指して)先生、これはイボといいます」
 ……。知っとるっちゅうねん! それを調べるために辞書買ったんかい!

話はかわるが、「ベトナム人はよく食べる」。
休み時間には必ず誰かが何かを調達してきてみんなが群がる。もちろん私も、群がる。スナック菓子などはほとんどないので、たいていが果物・もちなどである。なんとも健康的。これがまた、うんまい。休み時間に食べる手軽な果物は例えばランブータン、アセロラ、とうもろこしなど。もち系はたいていバナナの葉っぱにくるまれているので開けるまで何が出てくるか分からない。一度真っ黒な物体を確認した時はさすがにギョッとしたが、これもまたイけた。
 学生たち(性別問わず)は食べながらいつもその材料・作り方をていねいに教えてくれる。このころから“ベトナム料理制覇”を目論んでいた私は、聞いたコトもない食べ物や料理の名前が出てくると身を乗り出して説明を乞う。もちろん日本語で。
 彼らはジェスチャーも交えて一生懸命説明してくれるが、私はいまいち分からんフリをするのだ。そうすると彼らは顔を見合わせて、
「では、一緒に食べに行きましょう」
しめしめ、作戦成功。かくして私は庶民派グルメ街道を突っ走っていったのだ。
 彼らと私は何度となく、渋滞に引っ掛かるのを恐れ、私を早くつれて帰ろうとする運転手さんを説得し、授業の後に麺や米料理・あんみつ、時にはビール(おいおい、キミは飲むなよ運転手さん)を囲んで騒いだ。

祝日や娯楽の少ないベトナムでは、誕生日やお正月はもちろん中秋祭や先生の日などのイベント日にはとにかく輪になって、これでもかと言うぐらい食べる。そして歌う。
 ベトナムには、日本にはない“先生の日(11月20日)”というのがあるが、それだけ教師という職業が敬われているのだろう。学生たちは年齢を問わず、とにかく先生に対して最高の礼儀で接する。もちろんぐうたら先生の私へも例外ではなかった。
 しかし、これが食卓につくと、えっらいことになるのだ。輪になって食べるのだから基本的に「みんなでつっつく料理」である。お鍋はもちろん、スープや肉類、野菜もたいてい一つの大きな器にどーんとのっけられている。食の文化だけ見れば弱肉強食ともいえるのかもしれない。しかし、である。先生であり女性である私にはその、んまそうな料理をつっつく暇、選ぶ暇を、彼らは与えてくれない。私の取り皿が空になっているのを見た次の瞬間にはもう、
「先生、どうぞ。遠慮しないで」
と、鳥さんやら魚さんやらでてんこ盛りになったプラスチック茶わんを両手で恭しそうに差し出してくれる。目の前にある料理を残せない貧乏性の私にとって、この椀子そば系の試練は食への感謝を忘れそうになる一歩手前でもあった。


■□◆◇ベトナム点描 −洪水の大通り− 中 原 和 夫

サイゴンからメコンデルタへ、ツアーバスで出発したのは雨の日の早朝だった。旅行社の前は、大雨にもかかわらず各地へ向かうバスを待つ旅行者で混みあっていた。朝食がまだ済んでいなかったので、隣の食堂でサンドイッチを作ってもらい、事務所の中のベンチに腰掛けてそれを食べた。周りは4分の1ぐらいが日本人である。そのうちバスが何台もやって来る。バスが出るころには、雨も小降りになって、そのうちやみそうな気配になってきた。大分待たされてバスはやっと発車した。
 やがて、チョロン地区の大通りにさしかかると、そこは一面泥水の川になっていた。それでも人々はバイクに乗って職場あるいは学校に急ぐところのようである。平均して水深は 30 cmといったところか。洪水の道路上の車の洪水。こちらは車高の高いバスの中から、泥水の中で悪戦苦闘しているバイクの群を見物しているだけ。バイクの排気口が水面すれすれになっているが、エンジンを無理にふかして走ろうとしている。中には、ブクブク泡を吹きながら走っているバイクもいる。
 当然の事ながらエンジンが停止するバイクが続出している。止まったエンジンをなんとか動かそうと一生懸命ペダルを踏み込んでいる人たち。いったんエンストしたら、中に水が入ってしまって、そのままではエンジンが動くわけがないのだが、などと思いながら、バスの中の我々は眺めている。若い女性もアオザイの裾が泥水につかるのもものともせず(裾だけで済んでいるわけではないが)、走るか、バイクを押してジャブジャブと歩いている。
 そこで、ふと思ったのだが、この人々は職場到着後、濡れた服をどうするのだろうか。このような時のために職場に着替えを用意しているのか、それとも濡れた服を着たまま乾かすことになるのか。泥んこのまま。
 一方これが日本ならどういうことになるのだろうか。通勤途上、突然目の前の道路が川になっているのを発見したとき、それをものともせず会社へ急ぐのだろうか。やはりベトナムと同じか。
 メコンデルタからの帰りに、また同じ大通りを通ったとき、道路の脇に大きなヒューム管が並んでいるのを見かけた。当然の事ながら、毎度の洪水をどうにかしなければならないと当局も考えて、新しい下水道建設のための工事を準備中なのだろうと私は勝手に想像した。一部では既に工事のための柵を設置しているようでもあった。当分は、この地区の住民の苦行は続くのだろう。
 旅行には雨期を避けたほうがよいのだろうか。だが、私は、そうは思わない。ベトナムの人々は、雨期を含めてずっとそこに住んでいるのだし、泥水に浸かった大通りを行く人びとと遭遇するのも、旅行者にとっては貴重な体験になるのだから。


事務局より

ベトナム戦争終結25周年を記念して「戦争と平和・世界のこどもたち」をテーマに「ベトナムのこども絵画展」(写真)の海外巡回展(主催:同実行委員会)が1月9日から2月10日まで、沖縄で開催されました。ホーチミン市戦争証跡博物館が、子どもたちが過去を知り、21世紀をどう生きるか−との趣旨で昨年9月に同絵画を開き、ベトナムの子どもたちから1万点以上の応募がありました。絵画は絵はがきで購入できます。収益は、ストリートチルドレン支援と、ベトナム子ども基金やベトナム青葉奨学会沖縄委員会によるメコンデルタ洪水災害地での「避難所兼学校」の建設支援にあてられます。5枚1組400円。お問い合わせ・お申し込みは、電話ファクス:098−875−9641(那須)まで。

絵:故郷に春が来た グエン クイン カイン アン 12才)


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