「ベトナム子ども基金通信No.15」より


青葉奨学会から支援を受けているホーチミン市の高校生、フィン・ファム・トゥアン・アン君が9月28日、約1週間の奨学生派遣プログラムで来日、高崎市の高校生との交流をはじめ、里親とも面会しました。

ベトナムのアン君
日本の里親に面会 高経大附高を訪れ交流

日本国内の里親から奨学金の援助を受けているベトナムの高校生、フィン・ファム・トゥアン・アン君(16)が29日、高崎市の高崎経済大学附属高校を訪れ、生徒自治会の役員と懇談、空手や柔道部などの部活動を見学した。
 アン君はホーチミン市の郊外にある高校(1200人)の2年生。日本人が学費などを援助、里親になっている「ベトナム子ども基金」(会員数450人)を基にした奨学金を受けている。この奨学生の中から、学業が優秀で精神的にも自立している生徒を選んで、日本の里親に面会、同年齢の高校生と交流してもらう。この制度で来日したのは、2年前の金沢市に続いて2度目。高崎市では同基金の会員で山名町の会社員、清水勇治さん(55)方に宿泊、前橋工科大に留学中のベトナム人学生、トリン・バァン・ビィンさん(22)さんが通訳を引き受けた。
 高経大附属高校では英語を使って意見交換。「将来は経済関係の仕事をしたい」と夢を語り、「ベトナムでは景気が上向き、社会全体が活発になっている。でも、物価も上昇し学費は月2000円にもなった。日本の高校はどうか」など熱心に語りかけた。さらに、柔道や空手、野球、サッカーなどの部活動をじっくり見て回った。
 アン君は、県内外の観光、福島県内の里親を訪ねるなどし、4日に帰国する。【10月1日付上毛新聞

編集部注:本文中に「2年前の金沢市に続いて2度目」とあるのは、正しくは「3度目」です。奨学生派遣プログラムは、1998年の北陸ベトナム友好協会、99年のベトナム青葉奨学会沖縄委員会に続き、今回ベトナム子ども基金が受け入れました。

アン君のホームステイ
群馬県高崎市山名町 清水勇治・泰代

アン君のホームステイから2か月余が過ぎます。おそまきながら高崎でのホームステイの様子をお伝えすることにします。
 いろんな機会というものは重なるものです。私たちは群馬県国際交流協会が主催の地球市民講座「タイを知ろう」「ベトナムを知ろう」に参加していました。初回の講師、宇戸清治さんは新星学寮出身でした。
 折しも、ベトナム子ども基金からホゥエ先生との懇談会に出席し、いつもながらの先生の活躍に感激しました。同じ群馬県の榛名町から清水匡・洋子ご夫妻が出席されていました。子ども基金の窪寺裕子様からは今年前橋工科大学に入学したトリン・ヴァン・ヴィンさんを紹介されました。そして、今回のホームステイのお話があったのです。もう1人、高崎経済大学にお勤めの吉田健一さんは、ベトナムで開催する大学フェアを控えて「ベトナムを知ろう」に参加されていました。さっそく顔見知りのよしみで、アン君と高校生との交流のために附属高校への紹介をお願いしました。
 9月29日、高崎駅でヴィンさんと合流し、アン君と子ども基金の南さんを迎え、高崎経済大学附属高校を訪問。国際交流委員会、生徒自治会、教務部、英語科の連名で大変立派な「ベトナム高校生来校プログラム」とともに迎えていただきました。生徒自治会役員との自己紹介、プレゼント交換での打ち解けた交流、校内施設・空手や弓道などの部活動の見学に、アン君はとても積極的に参加し、たちまち予定の時間となってしまいました。
 帰宅すると、これからがホームステイ本番。ヴィン&アン組が食事作りを手伝い、アン君を心待ちにしていた近所の中学生、坪川朋子さんが加わり、楽しい夕食となりました。
 9月30日、近くの小学校の運動会を見に出かけました。小学校に隣接する幼稚園では、園の先生がアン君を園児に紹介してちょっとした交流会になりました(写真。アン君は1日にして、日本の幼稚園児から高校生までに接したことになります。
 午後は茶道です。田中喜美子さんと磯崎重子先生が見事な茶室に迎えてくださいました。掛軸、お花、お釜だけの広い空間は心地よいものの、正座はつらいようでした。アン君はお抹茶が気に入ったようで、特に和菓子にはご機嫌でした。また、自分で点て、自分でいただくスーパー体験もしました。
 夕方は、アン君の歓迎会。館林が自宅のグエン・ディック・ホアンさんはアン君の通訳も兼ねて、遠路をいとわず駆けつけてくださり、総勢15名のパーティーとなりました。アン君は味を確かめ確かめしながらヌクマムのたれを作り、ホアンさんの奥様は絶品の生春巻きを作ってくださいました。他の参加者も各々1品を持ち寄り、それは豊かな食卓となりました。アン君と中学生の3人は仲良く話がはずみ、にぎやかな歓迎会でした。
 10月1日、付属高校での交流記事が上毛新聞に載りました。高崎駅へ向かう途中、名所を訪ね、市役所の最上階でぐるっと市内を展望、あっという間の観光を終え、新幹線に一人乗ってアン君は東京へ向かいました。
 子ども基金の近藤さん、南さん、ホーチミンの高橋さんお世話様でした。楽しかった!
 後日、ハノイで学校建設にかかわっている知人の広田さんから連絡があったり、吉田さんがベトナムでの大学フェアから戻られたことで今回のひと区切りができたようです。11月11日、群馬県国際交流協会は設立10周年記念に、明石康さんを招いて「グローバル化と日本」という講演を行いました。ひと区切りとまた次への心構えでしょうか。新星学寮、アジア文化会館の卒業者である私たちにのところに、アジアの若い人たちが訪れ、帰っていきます。サクサクとした日常の付合いをこれからも続けたいと思っています。

ベトナム現地紙「サイゴン解放」(9月21日付)でも紹介
ヴォー・ティ・サオ高校の学生、日本での交流へ

2000年9月20日午後、日本航空でヴォー・ティ・サオ高校2年のフィン・ファム・トゥアン・アン君(16歳)に日本への航空券(50%の値引きで約500ドル)が渡された。アン君は9月27日にホーチミンを出発する。8日間の日本滞在中、高崎で日本の高校生との交流や、東京で里親と会い、これまでのお礼を述べる予定だ。アン君は、家庭は貧しいが成績がよく、1997年からドンズー日本語学校の青葉奨学会からこれまで奨学金をもらっている。今年は約1200名の奨学生のなかから彼が選ばれて日本に行くことに決定した。

アン君からの手紙

子ども基金のみなさま、日本から戻ってはや1か月ちかくが過ぎ去りました。日本での日々は興味深く、またとても強い印象を受けました。これらの日本での日々を私は忘れないでしょう。なかでも以下のことが印象に残っています。
 松並さんのご家族と一緒に夕食をたべたこと、高崎の清水さんのお宅に滞在できたこと、ベトナム人の先輩たちと蒼生寮でともに暮らせたこと、ベトナム人の先輩たちと遊びに行けたこと、南さんと電車でいろいろなところへ行ったこと、近藤さんといろいろ話ができたこと。
 子ども基金のみなさま、そして私のことをいろいろ助けてくれたみなさま、なんとお礼を言っていいかわかりません。清水さんご夫妻、松並さんのご家族のみなさん、里親の芳賀さん、近藤さん、南さん、またいろいろご迷惑をおかけしたベトナム人の留学生の先輩のみなさま、ありがとうございました。いつの日か、また日本へ行きたいと思います。

ホーチミン市 2000年10月27日 フィン・ファム・トゥアン・アン


7月29日に開催した「ホゥエさんを囲む会」に参加された千田幸子さんよりお手紙をいただきましたので、ここに紹介します。(編集部)

ベトナムを再建できる人材のために

ホゥエ先生との懇談会では、幸運にも私の出張と重なり出席させていただくことができました。日ごろ仕事に追われ、少し立ち止まって考える機会の少ない私には貴重な時間でした。ありがとうございました。和気あいあいのお話の中にも、ホゥエ先生の「ベトナムを再建したい」という情熱や、30数年来の皆様の応援の気持ち、困った人をほおってはおけないお気持ちなどに触れ、私も一息ついて他者を見つめたり考えたりする時が持てました。

教育の大切さを痛感

私は10年くらい前インドに行きました時、大変大きな衝撃を受けました。人々は貧しくても美しい色のサリーを着て土木作業をしていました。私たち以上にゆったりしたゆとりを感じました。一方、ほったて小屋のような粗末な家がぽつんとある田舎であっても、電気が来てさえすればテレビがありました。井戸水やトイレよりまずテレビがありました。また、女性の身分の低さにも驚きました。教育の大切さを痛感しました。なんとか私に出来ることをしたいと思い、フォスタープランの里親に応募いたしました。インドの女性に絞って援助しましたが、思うように勉強を続ける子どもは少なく、少しがっかりしましたが、里親として続けています。これ以外にもユニセフや日本赤十字などの寄付をしていますが、寄付が活かされているのか少し疑問を感じていました。
 ベトナム子ども基金のことを新聞で知り、後にテレビでホゥエ先生のお話を聞き、これだと思いました。将来のベトナムを担う人材を育てるため、人柄や学力の優秀な子どもが勉強を続けていけるように、里親制度で援助していく、と理解したからです。もちろんみんなに援助できれば一番いいのですが、際限なく資金はありません。国を作るには人を育てなくてはなりません。第2第3のホゥエ先生が続けばすばらしいと思います。

限りある援助を有効的に

今回の懇談会で、ストリートチルドレンへも援助をなさったとうかがいましたが、もちろん重要なことであり意味のあることですので、何も意見が言えませんでした。しかし、援助する側から言いますと、そういう意味での寄付は違う組織でも出来ます。私自身毎年しております。毎年外国へ行く機会があり、貧しい人やストリートチルドレンを見ます。見た者をほおっておくのは大変つらいものがあります。しかし際限なく援助は出来ません。
 ベトナム子ども基金の使い道は、他の支援団体とは違い、ベトナムを再建できる人材を育てるために使っていただきたいと考えます。ベトナムの農村を見ますと、一昔前の日本のように整然と手入れされた水田が広がっていました。勤勉なベトナムの将来に期待しています。
 詳しい事情も知りませんのに、私事を書きましたが、いつも皆様のご苦労に感謝しております。

7月29日 京都市左京区 千田幸子


ベトナムへの旅
〜子どもたちの校舎をたずねて〜 神谷尚代

今回の旅ではホゥエ先生のお計らいにより、ベトナム子ども基金で資金提供をして建設した小学校、中学校の様子を見せていただきました。

8月17日、ベンチェー省の小学校の完成引き渡しに同行しました。ホーチミン市から車で2時間、メコンデルタの町ミトーにつきます。そこからフェリーで対岸に渡り、さらに車を走らせ40分、人民委員会の事務所で委員6名と小船に乗り換えました。川をさかのぼること20分、竹で編んだ筒を沈めウナギを捕る人、ヤシの実を積んで行く舟を見ながら船着き場に着きました。
 ここからは徒歩です。ひと1人がやっと通れる細い道。ヤシとブーゲンビリアの木陰にヤシの葉で編んだ小屋が見えます。洗濯物が干してあるから、ここに住む人がいるのでしょう。ハイビスカスの木に囲まれて、ベトナム戦争で亡くなったのであろう方たちの墓がありました。バナナの林の中の一本道、バナナの葉を通して射す日は薄緑色。緑の濃淡の中に、ブーゲンビリアの濃いピンク、ハイビスカスの赤を配色した豊かな、穏やかな色の世界です。「なんて美しい所なの。こんなところに住んでみたいわ」と言う私に、青葉奨学会の高橋佳代子さんは「ここに住むのは大変よ」とおっしゃいました。
 小さな水路に沿ったヤシの木の角を曲がると、銀色に輝く屋根に黄色と白の外壁をもつ建物が現れました。これが、今回完成した小学校です。
「これはちょっとぜいたくすぎる建物ですよ」ホゥエ先生は笑いながらおっしゃいました。また「もしこの建物をODAで作ったら、この予算の5〜6倍はかかるでしょう。村長をはじめ村の人たち、人民委員会、建設業者がよく話し合い、また私たちも小まめに足を運ぶことによって、子どもたちに役立つよいものができるのです」ともおっしゃいました。
 床をたたいてみました。コンクリートが使われています。壁も天井もしっかりしています。これだけの資材をあの細い一本道を使って運んだのですね。たくさんの人の汗で出来たのだといまさら思いました。高橋さんが言われた「ここに住むのは大変よ」がわかりました。
 ピカピカの教室で、引き渡しの書類交換が始まりました。言葉と共に交わされる書類は、ノートを破つたものに手書きです。学校にはトイレも給水設備もありません。ホゥエ先生は、「村の人達と人民委員会でよく考えて子どものためになるようにしなさい」とおっしゃいました。ただお金を出せばよいのではないのです。その代わり、建設費の余った予算で新しい机といすをいれようと、話し合われていました。
 こうして引き渡しは終わりました。あとは9月の新学期に開校式をするそうです。
 ホーチミンから所要時間4時間、子どもたちに教育の場をと考えるなら、何よりも現地に行き現地の状態を知り、地元の方とどうすればよくなるかを話し合ったうえで行動することが大切なのだと今一度再認識しました。
 あふれる緑の中の黄色と白のがっちりした建物には「ベトナム子ども基金寄贈」のプレートが付けられ、子どもたちに守られて行くのでしょう。

8月18日、クチ郡の中学校にお邪魔しました。この学校は北陸ベトナム友好協会が資金提供をして建設されたとのことです。この近くには中学校がなく、子どもたちは17キロ先の学校に通っていました。しかし、赤土のぬかるみ17キロを通うのは並大抵のことではありません。たくさんの子どもが学校を去って行きました。
 昨年8教室ができあがり、学校が始まりました。多くの生徒が学校に帰って来ました。この学校の建設については、地元の新聞にも大きく取り上げられたそうです。今回6教室が完成しました。3年計画で、来年度はグラウンドを整備し立派な学校になるのです。地元のタイホア新聞社のニャット社会福祉部長、カメラマン、ホゥエ先生、高橋さんと5名で訪問しました。
 クチ郡はホーチミン市に属します。でも市内とは一変していました。どこまでも続く稲田、潅木の林が低くてまばらなので見通しがますますよくなっています。「15年前までは、枯れ葉剤の影響で何も生えませんでした。今ある木は15年くらい育ったものです」ホゥエ先生がおっしゃいました。戦争を感じました。赤土の上にアスファルト舗装がされた国道は遠くカンボジアまで続くそうです。道路に陽炎が立って歪んで見えるのだと思ったら、本当にでこぼこでした。おしゃべりをしていたら舌を噛みます。
 途中、国道と別れ、赤土の細い道を15分ほど行くと広大な草原に立派な建物が見えました。コンクリートブロック作りの平屋建の校舎が2棟、威風堂々とそびえています。緑色の屋根に、ベージュの壁、ひさしが深いせいかとても落ち着いたたたずまいです。校長や郡教育課長ルアンさんなど5名が迎えてくださいました。
 学年末休みですが、生徒たちは補習を受けていました。完成した校舎を見て回ります。「サッシをアルミにしたから明るいでしょう」ホゥエ先生がおっしゃいました。事務室で引き渡しが始まりました。書類が交わされた後、ホゥエ先生は、「1年間使った校舎が汚れている。北陸ベトナム友好協会の方が見えたらがっかりするだろう」と声をあらげられました。確かに新しい校舎の割に汚れが目立ちました。特にトイレは、日本の学校では考えられない位悲惨な状態です。でも、これがこの国では普通だそうです。学校では生徒による清掃時間はありません。専門の人を雇って掃除をしますが、雇えなければそれまでのことです。「日本では生徒が使った後をきれいに掃除している。ここでも校長として教育すればきれいになるはずだ」ホゥエ先生の怒りに校長先生はちょっとけげんな顔をなさっていました。10月には北陸ベトナム友好協会の方がみえて新しい校舎も使用が始まります。今度はきっと校長先生の教育方針として清掃活動がなされるのではないでしょうか。

メコンデルタ洪水被害緊急支援

11月16日付号外で「避難所兼学校の建設」のための支援をお願いしましたところ、35件25万6300円(12月8日現在)の募金がありました。これに加え、これまでに「ベトナム子ども基金・緊急支援」口座に募金していただいた基金を充てて支援を行う予定です。皆さまのご支援をお願い申し上げます。
 青葉奨学会からの連絡によると、現地新聞社と協力し、建設地を策定中です。候補地としては、被害の大きかったドンタップ省が挙げられています。支援の経過につきましては、本通信とホームページ(http://www.yk.rim.or. jp/~vnr/kodomo/kodomo.html)で随時報告していきます。(編集部)


人情の街 サイゴン その2 脇 平 裕 美
本稿は、通信NO.14から連載の「ベトナム滞在記」を改題したものです。(編集部)

おばちゃんとのコミュニケーションはまだまだ目を覆うモノがあったが、私は毎朝ここでパンを食べ、1日2回以上はコーヒーを飲んだ。しかし、この憩いのひとときは休み時間に群がってくる学生たちに容赦なくさらわれてしまうのだ。
「先生は新しい先生ですか?」「先生は白いですねぇ、きれいですねぇ」
出た。一瞬にして私はベトナム人の“美白神話”を思い出した。
 神戸で日本語を教えているころ、なぜかベトナム人学生は私を「きれいだきれいだ」と賛美していた。
「ほほほ。彼らには私の美しさがわかるのね」
などと納得していた私がフィリピンの離島への旅行から帰ってきた時のこと。一人の学生が腹立たしそうに、
「はぁ。先生はもうきれいではありません」
と、ため息をついたのだ。ちょっと日焼けをしただけではないかぁー!
 事実、彼らは白い肌にヨワい。だから若い女性は日中外出する時には必ずながーい手袋とマスク、帽子を忘れない。とにかく、新しいモン好き・白い肌好きのベトナム人のツボを2つとも押さえていた私は、
「つかの間の賛美、素直にお受けしよう。どーせもうすぐもっと新しい先生が来るんだから。どーせすぐ黒くなるんだから」
と、みんなにあいそを振りまいた。
 数日間の授業見学が終わり、ついに私の担当クラスが決まった。車で1時間の郊外にある日本企業に採用が決まったばかりの20名。ベトナム人先生とペアを組んで「あいうえお」から教えることになった。先生も学生も1年生だ。初日の開校式が終わり、ベトナム人先生がオリエンテーション。
「日本人は時間に正確。絶対に授業に遅刻しないように」
うんうん、これは最初にゆっとかんとね。
「持ち物は、ペンとノートと…」
そ、そこまでゆわなあかんのか…。
 こうして、朝の苦手な私が6時半にホーチミンを出発し、7時半から「みなさん、おはようございます!」と元気に授業をするようになったのだ。ちなみに交通手段は学校のバン。そしてこの国の朝のラッシュがまたすごい。なにせバイクが優先なので、街を出るのにひと苦労なのだ。通勤ラッシュはどこの国でも大変ということなのだろう。この車、もちろんエアコンがないので窓は開けっ放し。帰宅後のシャワーで排気ガスで黒くなった泡が流れるのを見るたびに、
「私って別に白髪染め、してへんやんなぁ」
と自分に確認する。
 私の担当したクラスは幸運にも特に仲が良く、人懐っこい学生ばかりだった。
「私(“私たち”はまだ習っていないので)、先生、カラオケ」
これだけでカラオケへ連行されたこともある。
「先生、カメラ」
学校の前の公園を指差し、一緒に写真を撮ったこともある。
「先生、カラオケ、ドラえもん」
教室でドラえもんを歌わされたこともある。拍手喝采。ここは幼稚園? 言葉が通じないぶん表情も豊かになるのがわかる。
 しかぁし。さっそくいた。遅刻してくる学生が。一度目は注意を促して終わったが、度胸のいいコトにまたもや遅刻してきたのである。しかも、不機嫌な顔の私を見て、
「先生、だいじょうぶ、だいじょうぶ!」
と笑顔。プチン。キれた私は怒鳴った。母国語で。関西弁で。
 しぃ〜ん。私は「せ、先生が怒っている…」
という事実だけ伝わればいい、と思い、平然と授業を続けた。

こんなに大好きな学生たちが、遅刻という基本中の基本のことで日本人上司の信頼を失ってほしくない。これだけはどうしても伝えたかった。日本社会に一歩踏み入れてしまったからには日本人の「当たり前」を分かってほしかったのだ。…ま、小学校の集団登校には間に合ったためしがなく、中学校では遅刻のせいで繰り返し日直をやらされていた私を、彼らはもちろん知る由もないが。
 企業クラスを受け持つたびに、生意気にも私はこの点だけは妥協せずに教えた。
 ある日、「私は〜です」「これ、それ、あれは〜です」や挨拶しか勉強していない、まだ始まって間もないクラスでまた出た。遅刻者が。私はあきれ顔で自分の時計を指差し、「すみません」という言葉を促そうと手を耳にやった。するとその学生はにっこりと微笑み、自信たっぷりに、
「先生、それは時計です」
……。完璧な応えに腰が抜けた。完敗。そう、これは時計…。
「は、はい、そうですね。席へどうぞ。」
と言ってはみるが、この意外な展開に笑いが止まらない。と同時に、
「この前の学生もこういう“かえし”をしていれば怒られずにすんだのに」
と、涙目になっていた彼を思い出し、あの時怒鳴ってしまった自分にもちょこっとだけ反省した。(つづく)


□■◇◆
ベトナム点描2−コーヒー豆屋− 中原和夫

ホーチーミン市のあちこちにベトナムコーヒーを売っている店がたくさんある。特にベンタイン市場の中には、何軒ものコーヒー豆屋さんが並んで店を出している。今回の旅のおみやげにコーヒー豆とフィルターを買って帰ろうと、いろいろな店を覗いて歩いた。
 どの店も、同じ種類の豆の店頭表示価格は同じである。一番高い豆が100グラム当たり1万8000ドンの店もあれば、2万4000ドンまでの高級品を置いてある店もある。店の前に立つと、店のオネーサンが、すぐに豆を一掴みほど豆挽き機に放り込んで、ほら、こんなに良い香りでしょうと客の鼻先に持ってくる。どの店もそうするので、無駄になるから豆を豆挽き機に入れないで、といちいち言わないといけない。
 さて、いよいよコーヒー豆を買おうかという段になったら、隣り合った店同士の激しい客の争奪戦に巻き込まれた。あっちの店のオネーサン、こっちの店のオネーサンに両方から腕を引っ張られる。どうしてうちの店で買ってくれないのよ!(これは、日本語) なんとも収まりがつかなくなり、また後でと言って、ここで買うのは諦める。少し離れたところにたどり着いたところで、若いオニーサンがよってきてささやく。私の店は、1軒だけ離れたところにあるから大丈夫ですよ。あの人たちには見つからないから。
 ちょっとばかりくたびれて、今回は、コーヒー豆購入は諦めた。(2000年夏のベトナムドンと日本円の交換率は、約130ドン/円であった)


事務局より

ベトナムでは9月から新学期に入りました。それにともないホーチミンの青葉奨学会より里子の新しい履歴票が送られたきました。事務局でそれらを翻訳し、里親のみなさまに送りました。
 しかし、一部お送りできていない物もあります。それらは、今年高校(12年生)を卒業した里子、成績が悪くなった生徒達などの分です。高校を卒業した生徒については、その後大学に進学したのか、就職したのか、浪人中なのかを確認中です。
 また成績が悪くなった生徒については、どれくらい悪くなったのか、なにか特別な理由があるのか等をしらべています。履歴票は今しばらくお待ちください
 「メコンデルタ洪水被害緊急支援」については通信15号7ページをご参照ください。ホーチミン市駐在スタッフ、高橋佳代子さんの連載“GAP LAI NHE”(また会いましょう)は休載しました。

訂正 ベトナム子ども基金通信号外
つぎのように訂正します。
●2ページ左段4行目と35行目
「キエンザン省」→「ティエンザン省」
●2ページ左段6行目
「ロンスエン省」→「アンザン省」
●2ページ右段39行目
「水位が高いところはどこがらが川なのかまったくわからない」→「水位が高いところでは、どこからが川なのかまったくわからない」
●3ページ右段9行目
「この村の人口は約15万人」→「この村の人口は約1万5000人」


もどる

Copyright Vietnam Kodomo Kikin 2000, All Rights Reserved.