「ベトナム子ども基金通信No.14」より


青葉奨学会のホゥエ氏来日、東京にて報告会開催

ベトナム子ども基金は7月29日、ベトナム青葉奨学会代表のグエン・ドク・ホゥエ氏を迎え、同奨学会の現状を報告する「ホゥエさんを囲む会」をアジア文化会館にて開催、全国各地から約30名の会員が参加しました。ホゥエ氏は、青葉奨学会の方針や学校建設、子どもたちへの精神的援助などについて、概略以下のとおり報告しました。

皆さまのおかげで、今年2000年は1200人近くの学生に奨学金を配ることが出来ました。その半分以上は子ども基金からの奨学金です。これまで対象の学生は、ほとんどホーチミン市の近辺でしたが、いまは全国的な規模になっております。現在、青葉奨学会の方針として、ホーチミン市だけでなく、もっと必要なところ、貧しいところ、特にベトナム北部に支給するように努力しています。
 運営については問題ありません。いま日本人現地スタッフは、脇平さんが帰国されましたので、後任の高橋さんがバリバリやっております。ベトナム人のスタッフはリエンさんとマイさん。マイさんは新しく入られたスタッフで、以前は高等学校の校長をされていました。
 奨学金は、ホーチミン市近辺では2か月に1回、学生に直接渡しています。遠隔地は直接渡せませんが、3年ほど前、各県ごとに奨学会ができました。奨学会のメンバーには、仕事を退職した人々が、自分の子ども、甥姪の世話をするという、しっかりした人が大勢います。みんな誠意を持って一生懸命に次の世代を世話する方々ですから、遠いところは各県の奨学会を通じて学生に手渡します。だから、皆さんのくださった奨学金はちゃんと学生の手元に届いています。ご安心下さい。

2000年は4校を建設

奨学金以外では、学校を建設しています。数年前、子ども基金によって一番南のジャングルの中に建てられた学校ですが、一度台風で屋根が壊れてしまいました。しかし、その後修理をして元に戻しました。昨年は同じ規模の学校を2校作りました。今年は4校作る予定です。1校は中学校で、3校は小学校です。
 小学校は子ども基金の協力で建てられます。校舎はありますが、屋根は椰子の葉ですので、空が見えます。雨が降ると勉強ができません。それから床は泥のままです。だから子ども基金の協力で、床もタイルを敷いて、屋根もトタンにします。でも、雨の日はトタンがやかましいし、晴れた日は暑くて勉強ができませんから、天井も作ります。そういうのが2校あります。もう1校は私はまだ行っておりませんが、脇平さんが視察に行きました。ただ、新しい教室を3つ建てるつもりでしたが、その教室を建てるためには、ボロな学校ですから、壊さなければなりません。しかし、壊すのはもったいない。まだ学校がないところもあるんです。いまあるものを壊して新しいものを作るのは罪があるような気がしますので、東京のベトナム子ども基金の意向も聞いて、最終的に中学校を作ることにしました。
 それから、静岡県磐田市のユネスコ協会の協力で、山の中に小学校をもう1校作ることを計画しております。
 学校建設のほかに、毎年、事務局の方も協力して、お正月に奨学生以外の街の親のない子どもたちや、靴磨きの子どもたちに、新しい服を一着ずつ贈っています。
 昨年から青葉奨学会は正式に政府に認められて、自由に活動できるようになりました。全国的に、青葉奨学会の存在は大事なものとして、みんな評価してくださっています。

精神的支援の重要性

 学生は奨学金を貰って喜びますが、それは物質的な援助です。精神の方は、まだやっておりません。皆さんの心を学生に伝えることが、まだできていません。物質的、精神的、両方の支援があって、はじめて青葉奨学会・子ども基金は価値があるんです。現時点ではまだ半分しか、皆さんに大変申し訳ないですが、私はまだ責任を果たせていません。
 いままで、私は日本語学校のことで忙しくしておりました。しかし、やっと日本語学校も軌道に乗ってきておりますので、青葉奨学会の方に時間を割くことができます。私は頑張って残りの半分、つまり精神的な世話、皆さんの気持ち、私たちの願っていることを子どもたちに伝えたいと考えております。
 今回、私はアメリカを廻って帰ってきました。日本にいたベトナム人留学生が大勢アメリカに住んでおります。サンフランシスコの近くで大きな集まりがあり、300人以上集まりました。その中に私たちの世話した東遊(ドンズー)学舎の学生が50人ほどいました。私が35年前にまいて苦労して育てた種が実るのを見て大変うれしかったんです。その場を借りて、青葉奨学会のことを紹介しました。そうしたら、みんな大いに歓迎してくれました。青葉奨学会は、アメリカ全土のベトナム人の間に広がっていきます。
 実は、2000年12月までにすべての仕事を片付けて休もうと思っていました。しかし、アメリカの旅行でどうも辞められそうにないと思いました。だからまだ数年間、頑張らないとダメです。青葉奨学会の精神的支援と、それから日本と、アメリカの元日本で勉強した方々と今の政権との橋渡しの役割を何とか自分ができるところまで頑張りたいと思います。

質疑応答

会場 私は子ども基金に4、5年お世話になっています。里子は今年高校3年生になり、一応これで奨学金は終了します。ですから、ベトナムの観光を含めて、是非、本人に会ってみたいと思います。
ホゥエ 大いに歓迎します。是非ベトナムにいらして、里子に会って本人の成長を見てください。それからベトナムの現状をご覧になってください。
会場 来年、ベトナムで里子に会う予定です。何か簡単なお土産を持って行きたいのですが。
ホゥエ 学生にはノートのような道具が一番です。普通の学生はノートぐらいは簡単に買うことができますが、貧しい学生はノートやボールペンが必要です。できれば高価なものは避けてください。大学ノートもベトナムで買って下さい。日本とベトナムではノートの罫線が違います。それから日本のノート1冊でベトナムでは4、5冊も買えます。
会場 青葉奨学会とベトナム子ども基金の関係がよくわからないのですが。
ホゥエ ベトナム国内では奨学金は青葉奨学金といいます。しかし、海外で支援していただく方に一人ずつ送金していただくのは大変です。しかも経費もかかります。東京の近辺は子ども基金が窓口になり、ご寄付いただいたお金を集めて送っていただきます。そのほかに、金沢の北陸ベトナム友好協会、沖縄の青葉奨学会沖縄委員会とあわせて、3つの窓口を通して青葉奨学会を支援していただいています。
事務局 ボランティア団体としてベトナム子ども基金がスタートしたのが95年の6月です。こちらでは資金を集めて、ホゥエさんの方で自由に奨学金なり学校建設なり、ベトナムの子どもたちの教育のために使ってもらいたいと考え、いろんな方に呼びかけて会員になっていただきました。
 ただ一件だけ例外があります。子ども基金のある運営委員とその友人が、ホーチミンに行って、ストリートチルドレンの子どもたちと交流する機会がありました。その子どもたちの実情に非常に胸を痛めていました。その子どもたちを支援しているタオダンというベトナム人の青年たちのグループがありますが、そのタオダンがある時期に外国からの資金援助がなくなってしまったのです。これはホゥエさんの本意とは少しはずれますが、ホゥエさんを通じて、その子どもたちを支援するベトナムの青年たちに、2年間だけですが、年間100万の支援をしたことがあります。
ホゥエ いまの若い人たち、特に子どもたちには、理想が全然ありません。お金をもうけるだけです。それではダメです。私たちの世代では国が戦争をしていましたから、平和になったら、私は橋を造る、私は医者になって病人を治してあげると、そういう夢をみんな持っていました。いま子どもたちはそういう教育をされていません。やはり、こういう小さい子どもに夢を持たせること、それから仁愛、お互いの心を結びあう気持ち、そういうことは幼いときから情操に植え込まなければならないのです。
事務局 またこういう機会を持ちたいと思います。ありがとうございました。


奨学生ヴー・ヴィエット・タイ君 銀メダルを受賞

アジア太平洋数学オリンピック ベトナムの10人の学生、すべて賞を受賞

教育省からの情報によると第12回アジア太平洋数学オリンピックで、ベトナムから参加した10人の学生は、団体平均26.3点を取った。同時に彼らは過去最多の10人全員が賞を受賞。18か国187人が参加したこのコンテストで、ベトナムは団体別では台湾、韓国、アメリカに次いで4位だった。
 グエン・チュン・ラップ君(ヴィンフック省)が金メダル、ヴー・ヴィエット・タイ君(ナムディン省)ら2人が銀メダル、ドー・チュオン・ザン君(ハノイ市)ら4人が銅メダルを獲得したほか、残りの3人もそれぞれ賞を受賞した。 【ハノイ6月8日=トイチェー新聞より】

 
タイ君からの手

ナムディンにて5月24日

里親様へ
 はじめに、里親様とご家族の皆様のご健康とご成功をお祈り申しあげます。
 里親様! いま私は1999-2000年度の終わりの準備をしています。この1年、私は勉強に励み、注意して修養し、道徳を鍛錬しました。その結果、通年で、私は校長先生に「非常に優秀な生徒」と認定され、1年間の平均が9.0点で良い成績であると認定されました。この機会に私は里親様にこのニュースを喜んでお知らせいたします。
 この1年、私は全国数学学生選抜テストに参加し、2位になりました。同時に私はアジア太平洋数学オリンピックにも参加し、銀メダルを取りました。この結果により、私は特別に卒業資格を得、大学へ入学することを許されました。私は大変うれしいです。それは、私のこれらの結果が学校の業績の一部に貢献できたからです。私はちっぽけですが、これらの結果は、友人たちや家族、先生方、そして里親様に差し上げるプレゼントになりました。
 里親様! これまでずっとご援助くださったことに大変感謝しています。まさに里親様の途絶えることのないご援助そのものが、私の勉強の大きな励みとなり支えでありました。私は、里親様が私にくださるお気持ちにふさわしいように、常に勉強と鍛錬に努力することをお約束申しあげます。
VU VIET TAI(ヴー・ヴィエット・タイ)
ナムディン省 レ・ホン・フォン高校3年 数学専攻


GAP LAI NHE

本稿は、6月からベトナム子ども基金のホーチミン市駐在スタッフとしてご活躍いただいている高橋佳代子さん(写真)が個人的に執筆している「メールレター」を転載したものです。タイトルの“GAP LAI NHE”は、ベトナム語で「また会いましょう」という意味です。(編集部)

5月も半ばに入り、サイゴンは本格的な雨季に入りました。日本ではそろそろ梅雨の季節がやってくるころでしょう。みなさんいかがお過ごしですか。
 さて、みなさんは「ベトナム」という言葉を聞いて何を思い浮かべますか? ベトナム戦争、枯葉剤、難民、生春巻き、東洋のプチパリ、社会主義国…。世代によっても、男女によってもイメージは違ってくるでしょう。私も初めてベトナムを訪れた時は、「かつてベトナム戦争のあった国」というイメージしかありませんでした。
 その後、幾度となくこの国を訪れるようになってからは、戦争というイメージよりも日本と同じように、普通に生活している人がいて、泣いたり笑ったりしている(私は買い物をしてよくぼられて怒っている)現実を見るようになりました。そんな姿を見て、だんだん遠い国から「お隣さん」に近い親近感を感じるようになりました。

HONDAと味の素とKARAOKE

さて問題です。この3つの言葉の共通点は何でしょう? これらは、おそらくベトナム人なら誰でも知っている日本語です。
 HONDAとはベトナムではオートバイを意味します。オートバイのことをベトナム語ではセーマイ(xe may)というのですが、特に南部ではセーホンダが一般的です。カブタイプのオートバイであればなんでもセーホンダになるわけです。だいたい一家に1、2台はあります。ベトナムでは家と同様にオートバイは財産とみなしているため、大変価値のあるものとして大切にします。(ちなみにホンダの新車は約2300ドル=約25万円。ベトナム人の平均収入が月80ドル程度なので、いかに高い買い物かわかります。)
 次に味の素。化学調味料の一種です。「味の素は世界一」という宣伝文句のとおり、台湾製、中国製、韓国製よりも人気があるようです。最近は味の素を多量に摂取すると、人体に悪影響があるという事実が知られるようになり、一般家庭ではあまり使わなくなってきました。しかし、普通の飲食店ではまだまだお構いなしに使用しているので、注文する時「味の素はいらないよ」と言ったほうが美味しく食べられます。余談ですが「味の素」はスラングで日本人を冷やかす時に使ったりもします。
 最後にKARAOKE。きっとこの言葉は世界中の人が知っている言葉でしょう。日本で「カラオケに行く」といえば歌を歌うために行くと考えるのが普通です。ベトナムでも、もちろんそうなのですが、なかには日本のクラブのようなカラオケもあり、売春などの行為がされたりすることもあるそうです。でも最近は、娯楽のひとつとして、歌を楽しむ場としてのカラオケもたくさんあります。カラオケが苦手な私は数回しか行ったことがありませんが、楽しそうですよ。
 この3つの言葉は、すべて商品の名前です。その他にもソニー、ヤマハ、スズキ、ヒタチなど日本製品は高品質・高価格としてベトナム人に知られています。(私も外国に住んで初めて日本製品の素晴らしさを知りました。)そのくらい日本製品はベトナムの経済の中で大きな割合を占めています。
 反対に日本人のベトナムに対するイメージは文化面や、歴史に関することが多いように思います。それが良いか悪いかはわかりません。ただお互いにどの部分から日本を、ベトナムを見るかによって、イメージする言葉も違ってくると思います。このレターのなかでも、できるだけ身近な話題を通して、いままでとは違った面からのベトナムを伝えていきたいと思います。

サイゴンの街角から

 ベトナムにはあらゆる職業がある。日本人から見ると、「そんなことまで職業にしてしまうの?」とびっくりするくらい。体重測り屋(1回約10円)、バイク・自転車の修理屋(パンクが約100円)、ペットボトル回収屋、マッサージ屋などなど。
 そのひとつに“新聞売り”がある。ベトナム人はよく新聞を読む。朝8時ごろには街のあちこちでいろいろな新聞が売られている。(ちなみに私の購読紙は「SAIGON GIAI PHONG(サイゴン解放)」と、「QUOC TE(国際)」。)新聞配達を使っている人もいる。しかし、それとは別に“新聞売り”という職業を持った人たちもいる。街の中心の目抜き通りではベトナムの新聞のほかに、英字新聞、仏字新聞、そして時には、朝日新聞、読売新聞までも彼らによって売られている。
 ベトナムの新聞は1000〜3000ドン(約10〜30円)ぐらい。それに500ドンを上乗せして売るのだが、果たして儲かっているのかはわからない。失業率の高いベトナムでは選択の余地がないのかもしれない。しかし彼らは、スコールの降る日、日差しが強い日も「AI MUA BAO DAY」(誰か新聞を買いませんか?) と、掛け声をかけながら新聞を売っている。

こんな日もある

 早いもので、サイゴンに来てから約2か月。最初は暑さに悩まされ、そしてサイゴン弁に悩まされ、落ち込む日も多々あり。そんなとき、ベトナムでよくある「停電」が起こると、気分はもっとブルーに…。
 朝の8時から既に停電は始まっていた。ベトナムでは小さな地域ごとに停電が勃発するが(時には事前連絡が来る)、街全体、区全体が停電になることはめったにない。一流ホテルや外国人専用マンションには、自家発電があり、その地域が真っ暗な中でも光をこうこうと放っている。1,2時間の停電ならハノイでもよくあった。しかし今日のサイゴンの停電は長い。
 大学から帰ってきてもファンは止まったまま。冷蔵庫のヨーグルトは溶けてしまっている。
 午後2時、雨季にはお決まりのスコール。今日のスコールはあまり強くない。雨音がゆるやかだ。  
 短い休息の後、停電が終わっていることを期待して、ファンのスイッチを入れるが、動かない。
 普通、停電の時には、涼しさを求めて外へ脱出するのだが、今日は体調が良くないことと重なって、外出する気分にもなれない。
 そうしているうちに、だんだん日が暮れてきた。昨年オープンした日系企業のデパートのネオンが輝きだした。あの看板の1文字分の明るさがあったら…。
 ベトナムでは停電は日常茶飯事。だから必ず懐中電灯、ろうそくを常備しておくのが常識。それにもかかわらず、うかつだった私は、これらの2つとも持っていなかった。(こんな時に改めて自分の性格を嘆く。)
 現在20時20分。大家さんがろうそくを持ってきてくれる。大家さん曰く、「あとちょっとで、電気がつくよ」。しかし、ベトナム人の「あとちょっと」は時に1、2時間を指す。いったいいつになったら停電は終わるのだろう。
 日本では台風の時ぐらいしか停電は起こらない。ベトナムの都市では電気・水道はまだ十分な量があるわけではなく、住んでいる地域によっては慢性的な電気・水不足というところもある。私が住んでいる1区は比較的外国人が多く住んでいるので、恵まれている。
 水でも電気でも「あって当然」と考えるのはおかしい。蛇口をひねればすぐに水が、スイッチをつければすぐに灯りが、と思う前に、いったいこの水はどこから来ているのだろう、電源入れっぱなしのものはなかったかなあと考えてみると、また新たな資源に対する思いがでてくるのではないだろうか?
 結局、この日は8時40分に停電は終わった。長い停電だった。(5月17日 自宅にて)

あとがき

 今回から、メールアドレスを持っている皆さんには、メールレターと称して送ってみることにしました。
 気軽に感想、意見、希望、質問を返信してもらえたら、うれしいです。
 もう少したったら、インターネット上で、いろいろな人の意見が自由に交換できる場を作りたいと思っています。
 次回は、ベトナムという国、そして北のハノイと南のサイゴンについて書きたいと思っています。

ホーチミン市にて 高橋 佳代子
電子メール:kayoko@hcm.fpt.vn

(カット:haohao cafe)


ベトナム滞在記 その1 脇 平 裕 美

神戸。1995年1月17日。私の22歳の誕生日。「おめでとー。」「ケーキ食べよー。」「ろうそく20本にしとくー?」……なんて会話はもちろんなかった。覚えていらっしゃるだろうか。この日を。私は忘れていない。ガスもれの臭いや立て続けに起こった余震におびえた日々を。
 当時大学の3回生だった私は、近づいていた春休みを利用してタイへ卒業後の住み家を探しに行こうと目論み、準備中だった。興味のあった教育関連NGOのいくつかを現地へ「直接訪問!」企画中だったのである。それどころではなくなったのは言うまでもない。被害が比較的軽かった自宅は落ち着いたものの、海外旅行なんて出られる状況/心境ではない。しばらく被災地の中心でお手伝いを始めることにした。
 「ベトナム人の被災者たちがもう一度日本語を勉強したいらしい」。言葉の壁のために避難所で差別されたのだろう。真冬の、すきま風だらけの公園のテントにたくさんのベトナムの方々が集まり、被災ベトナム人日本語教室が始まった。次第に私はこの、ヘンな関西弁を使いこなす陽気なベトナム人たちに魅かれていったのである。授業中にもかかわらず祖国の料理や街の様子を一生懸命説明してくれる。何よりも自分の国に対する誇りを感じた。そしてそれは私が十分に持っていないものでもあったのである。
 よーし、予定変更。ベトナムにしよっと。ま、隣の国やし、えっか。とりあえず食べるために現地の日本語教師の職を得た。ここだけの話だが、この職業を私はただの「現地NGOを探すまでの“つなぎ”」にしたのだ。世界中でご活躍の日本語教師の皆様、ごめんなさい。とにかく私は私なりに、「いつでも全力投球」をモットーに、サイゴンへ乗り込んだ。
 暑い。うるさい。ほこりっぽい。先輩方の授業見学や迫ってくる初授業を考えると南国の当たり前の暑さがさらに暑く感じる。でもここは陽気な南国。冷えたベトナムコーヒー1杯ですべてがまるぅく収まる。いつものアイスコーヒーからステップアップして、今日はアイスミルクコーヒーにしてみよう。「おばちゃん。アイス、ミルク、コーヒー。砂糖、なし、ね。」つたないベトナム語でがんばった。
「☆#$%&△!」
 ……何かゆうてる。でも分からん。とりあえず日本人は笑顔笑顔。来た来た。おばちゃんがミルク入りのコーヒーを持ってきた。通じたやん。ん??あ、甘い。
「おばちゃん、砂糖、なし、ってゆうたやん!!」
「△&%$#☆!」
 また分からん。自分の語学力を反省。もう一度「砂糖なし」の発音を練習しよう。……。ベトナムのミルクコーヒーのミルクは練乳。つまり「砂糖抜きのミルクコーヒー」なんて不可能だ、という事実を知ったのはそれから1か月後だった。(つづく)


ベトナム点描1−物乞い− 中 原 和 夫

戦後の日本でも至る所に見られた物乞いの姿が、いつの間にか消えてしまって久しい。しかし現代のホーチーミン市ではよく目に付く。夜の街中の歩道上で、親子が川の字になって寝ているのに出会ったりする。そんな街に物乞いが出没しても何の不思議もない。
 サイゴン川のフェリーに乗ろうと待っていると、後ろから腰のあたりをツンツンと突くものがいる。ひょいと振り返ってみると、幼い男の子がプラスチックのボウルを持って、それで私の背中をつついている。何も言わずに真剣な眼差しでこちらを見つめている。こうなると、なにがしかのお金をそのボウルに入れざるを得ないような気持ちになる。
 銀行で両替して出てくると、数人の行列が私を待ち受けていたりする。みんな哀れっぽい表情である。先頭は、かなりの歳のお婆さんなので、知らない振りもできないので少々差し上げる。とたんにニコニコと笑顔になる。次はおじいさん。この人も無視できない。その次は、若そうな感じの女性であるが、どうも身体障害者らしい。この人にもあげなければ。その後ろは、5、6歳の男の子。もうやけくそでその子にもあげる。この人たちは、お金を受け取った後で例外なしに、暗い顔がたちまちパッと喜びに満ちた表情に変わる。男の子は、飛び跳ねながら向こうへかけていく。
「情け無用」と日本から来た若者が言う。女性の偉い先生は、「彼らの労働意欲をそぐことになるからダメ」とおっしゃる。私も以前はそう思っていた。しかし、社会状況を見るに、それで済ませて良いものだろうかと疑問に思うようになっていった。一体、老人福祉政策はどうなっているのか、などと言ってもどうにもならないし、何もベトナムだけの問題でもないけれども、たまたま出会って、今目の前にいる人の事をどうしても先ず考えてしまう。とは言っても、差し上げるお金は、ほんの雀の涙程度。お年寄りには 2000 ドン、幼い子どもの場合は1000 ドン、元気そうな若者には、渡さない、というのが私の基準である。(2000 ドンは、約20 円。我々が街の食堂で食べるベトナムうどんは、5000ドンから。)


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